夜更けの赤坂で、女はいつも考える。

大切なものは、いつも簡単に手からすり抜けてしまう。

私はいつも同じところで立ち止まり、苦しみ、前を向こうとして、またつまずく。

29歳、テレビ局の広報室で働く森山ハナは、ひと回り年上のプロデューサー・井上と出会う。

井上が女性と歩いている姿を見て荒れるハナは、男友達と飲んで気分を晴らそうとする。




高校時代からの男友達と飲んだ帰り道。

ハナは、渋谷から歩いて代々木公園の自宅を目指していた。夏の夜の散歩は、とても気持ちが良い。

―ハナ、どこにいるの?

スマートフォンを見ると、渉君から連絡が入っていた。今日は、早く帰ってきたようだ。

―今渋谷から帰ってるよ!

返信を打っていると、今度は着信が入る。

“井上さん”

スマートフォンの画面をじっと見つめながら、その着信に出ようかしばし頭を巡らせる。井上さんの声を一刻も早く聞きたいのに、それに出るのは躊躇われる。

井上さんが女性と2人で歩いているのを見て、裏切られた気分になっていたのだ。

―私のこと、散々好きって言っていたくせに。

自分のことは棚に上げて、そんな風に思ってしまう。10回ほどコールが鳴ったあとで、ようやくその電話に出る。

「もしもし、ハナ?良かった、出てくれて」

しかしハナは、何も言葉を返せない。

「元気してたか?」
「……」
「どうした?」

元気じゃない、井上さんのせいですっかり元気じゃない。

そう言ってしまいたかったけれど、これまでの自分の身勝手さを考えると、何も言えない。

しかし結局、来週の金曜日に会う約束をして、電話を切った。


渉君が待つ家に帰るハナ。どんどん深みにハマっていく?


「ただいま」
「お帰り。遅かったね。誰とご飯食べてたの?」

家に着くと、渉君が珍しくそんなことを聞いてきた。

「高校の友だち」

それだけ言って、バスルームへすぐに向かう。

ハナの気持ちは、混沌としていた。今日は男友達とご飯を食べて、帰り道に井上さんと会う約束をして、家に帰って渉君と一緒のベッドで寝る。

渉君との間に感じていた“溝”を井上さんが埋め、井上さんに裏切られたと思ったら、他の男達で解消する。

こんないたちごっこみたいな生活は、きっといつまでも続けられない。



井上さんとの約束は、赤坂の山王パークタワーの27階にある『春秋』だった。




井上さんとは会社帰りに気軽に立ち寄れる店に行くことが多いので、夜景が見えるような店は、初めてだった。

「なんか、久しぶりだな」

席に着くと、開口一番に井上さんは言った。

その言葉にうまく、返せない。どうしても、あの女の顔を思い出してしまうのだ。

「……元気してたか?」

その言葉に、こくりとうなずく。食事中、井上さんはいつも通りのトーク力を発揮し、最近の出来事を間断なく話し始めた。ハナはその話に、いつの間にか引き込まれていた。

頼んだ料理を一通り食べ終え、食後のお茶を飲んでいるとき、井上さんは真剣な眼差しで言った。

「今日は話があって」

思わずハナも少し、身構える。

「俺、やっぱりハナのことが諦められないんだ。ちゃんと付き合ってくれる?」

それは今まで井上さんにされた告白の中で、一番真剣なものだった。ハナが戸惑っていると、さらにこう言った。

「……他に男が、いるの?」

その言葉はハナを動揺させたが、そしてずっと聞きたかったけど言えなかった言葉を口にした。

「……井上さんだって、いるじゃない」
「え?」
「女の人と歩いているところ、見たもん」

そこまで言うと、井上さんは毅然と答えた。

「あれは、友だち。酔っぱらっちゃって、家まで送ってもらったんだよ」

それを聞いて、ハナの目には涙が溢れ出た。


ハナが井上の想いに応えられない理由とは?


なぜ、涙が出てきたのだろう。

ずっと気になっていたけれど聞けなかったことを口にして、自分がどれほど気にしていたか、気づいたからだろう。そして、井上さんのことをどんなに好きかということも。

―いつまでもフラフラしてないで、そろそろ“ちゃんと”しなさい。

友人の葵にはいつもそんなことを言われる。“ちゃんと”というのは、一人の人とちゃんと付き合って適齢期で結婚する、ということだろう。しかしハナだって、29歳という年齢で「結婚」を気にしないわけではないのだ。

井上さんとは年が一回りも違う。

仮に結婚して子どもが生まれたとしたら、子どもが成人するときに、井上さんは60歳を過ぎている。今は見た目だって若々しいが、もう5年もすれば、肌の張りもどんどん失われていくのだろう。

それに何より、年上だと甘えて彼に依存していく自分が、怖かった。井上さんが優しくしてくれればくれるほど、それにどっぷりとハマり、一人になるのに耐えられない。そんな自分の精神状況は、決して健全とは言えない。

“好き”と“依存”は紙一重だ。

依存しているから、ワガママがどんどん酷くなっているのだろう。同い年の渉君には、そんなことはしないのだ。

だから簡単に「好き」と口にできない。井上さんが真剣だと知っているからこそ、余計に。

「ちょっと、考えたい」

結果的に、こんなうやむやな返答になる。

すると井上は「分かった」とだけ答えた。“他の男”のことについては一切触れなかった。




「ただいま」
「お帰り。遅かったね。誰と飲んでたの?」

最近仕事が落ち着いているのか、渉君はハナの家に入り浸っている。そして必ず、誰と飲んできたのか聞いてくる。

自分のことを棚に上げて、渉君は独占欲が強い。私たちはきっと、似た者同士なのだ。

「……会社の人」

それだけ言って、いつものようにバスルームに逃げ込んだ。熱いシャワーを浴びると、いくぶん気分が晴れるのだ。

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井上の告白に、ハナの答えとは?