『バッタを倒しにアフリカへ』(光文社新書)

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『バッタを倒しにアフリカへ』(光文社新書)の表紙を一瞥すれば、なんとフザけた学者なのか……と、あきれてしまうかもしれない。昆虫学者の前野ウルド浩太郎氏は、幼少期にファーブルに憧れ、夢は「バッタに食べられること」という、バッタを愛してやまない男だ。だが、バッタに触るとじんましんが出てしまうという、どこかキワモノ感が漂っている……。

 しかし、彼のアフリカ・モーリタニア共和国でのフィールドワークを記した本書を読めば、彼が一流の昆虫学者であると同時に、純粋な心でバッタと向かい合うひとりの人間であることがわかるはず。ポスドク(博士研究員)として研究費の調達に悩み、バッタの大発生を粘り強く待ちながら、ようやく彼は成功を手に入れたのだ。

 本書をもとに、彼の足跡をたどってみよう。

 大学を卒業し、晴れて博士号を取得するも、日本にはほとんどバッタの被害がないために、研究の需要はない……。途方に暮れていた前野が飛びついたのが、アフリカでのサバクトビバッタの研究だ。アフリカでは、このバッタがたびたび大量発生し、「神の罰」と恐れられている。農作物を食い荒らし、年間の被害総額は西アフリカだけでもおよそ400億円に上るうえ、深刻な飢饉がもたらされているのだ。前野は「日本学術振興会海外特別研究員」として年間380万円の研究費・生活費を得て、2年間をモーリタニアでの研究に捧げた。

 到着早々、バッタの発生が告げられ、意気揚々と調査に繰り出す前野。夢にまで見たバッタの大量発生を目の当たりにし、大興奮する。それまで日本の研究室で研究を行ってきた彼にとって、初となるフィールドワークは、好スタートを切った。しかし、ここからが長い長い道のりだった……。

 前野はその熱意を認められ、バッタ研究所の所長から直々にモーリタニアで最高の敬意を込めたミドルネーム「ウルド」の名前を授かり、フィールドワークに赴くための体力づくりにも余念がない。しかしその冬、建国以来といわれる大干ばつに見舞われたモーリタニアにバッタの大群が現れることはなかった。仕方なく、砂漠を代表する昆虫「ゴミムシダマシ」を研究したり、偶然出会ったハリネズミを飼育したりしながら日々を過ごす前野。バッタが発生しなければ、もちろん研究もできない。「一体何しにアフリカにやってきたのか」。バッタ博士は、バッタの存在なくしては無用の長物だった。さらに、バッタの大量発生を解明する論文が書けなければ、研究者としての立場も危うくなる……。

 そして、最初の遭遇から1年半、ようやくバッタの大群との邂逅が実現! 車に飛び乗り、バッタの元へと500キロの道程を突き進む彼の前に現れたのは、はるか地平線まで続くバッタの大群だった。大群を目の当たりにした感動に酔いしれながら、調査を始めた前野。しかし、飛び回るバッタを追いかけようとしたその先に待っていたのは、一歩立ち入れば命の保証はない地雷原だった。バッタたちは、前野をあざ笑うかのように、地雷原の上を飛び去っていった。

 こうして、前野の2年間は終わった……。

 研究期間を終え、無収入状態に陥った前野。しかし、バッタに対する尽きせぬ想いを捨てられない彼は、無収入であっても、その研究を進めていくことを決めた。日本に一時帰国し、バッタ研究の意義を広く知らしめ、バッタ問題の認知度を上げるため、率先して雑誌連載やトークショー、そしてニコニコ超会議などの場での広報活動にいそしんだ。そして、再び彼はいちるの望みをかけて、アフリカの地へと舞い戻ったのだ。

 前野にとって3年目のアフリカは、例年にない大雨に見舞われ、各地でバッタの大群が猛威を振るっていた。バッタ発生の一報をつかみ、現場に飛び込んだ前野が見たのは、これまでに遭遇したものとはケタ違いの、空が真っ黒く覆われるほどの大群。念願の再会に、前野は観察ノートにペンを走らせながら、狂ったようにデータを収集していく。数日間にわたってバッタを追いながら、前野の手にはさまざまなデータが蓄積されていったのだ。その詳細な観察は、群れの動く法則すらも見えてくるほどだったという。前野の情熱は、この瞬間にようやく実を結んだ。

 バッタへの情熱、自然の前になすすべもない悔しさ、不足する研究費、量産されるポスドクによって就職難にあえぐ苦しみ、そして、そんな苦悩をついに打ち破る瞬間……。かつて、これほどまでドラマティックなバッタ研究についての本があっただろうか? 残念ながらバッタに食べられるという夢こそかなわなかったものの、前野は無事日本での研究者としての椅子を手に入れることにも成功した。バッタ博士は、今日もバッタを観察しながらニヤニヤとした笑みを浮かべていることだろう。
(文=萩原雄太[かもめマシーン])