荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第5回:“踊り場”がダンス・ミュージックに与えた影響

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 1969年の『ウッドストック』で人によっては反時代的な道化者に見えただろうロックンロール・コーラス・グループ、Sha-Na-Naが実際にはある種の文化保存的な意図をもったニューヨークの名門コロンビア大学のアカペラ愛好会出身だったように、1970年代の先発組のロックンロールへの再取り組みは優れて知的でもあった。

(関連:荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第4回:NYと東京、ストリートカルチャーの共通点

 グローバルな現代美術の歴史に卓越した仕事を残してきたコンセプチュアル・アーティスト、小野洋子(既に1953年、彼女は言葉だけを使った美術作品を試みていた)のパフォーマンスを、ジョン・レノンは大音量のロックンロールに持ち込んだ。20世紀の間“キリストよりも有名だった”男と結婚したアーティストによる彼との当時の活動は、どれも“言葉”、 “状況への介入”、“ドキュメンテーション”といったコンセプチュアル・アートの特徴を備えながら、ほとんどすべてがマス・メディアを通し伝播され、ネットのない時代にある種のスペクタクル性をもって同時中継さえ予測された“作品”として受けとることができる。

 ルー・リードは、ロックンロールにおける言葉のありかたについてエッセイを書き、その実践としてVelvet Undergroundでフランス象徴派詩のライトモチーフをヴェトナム戦争下に蘇らせたうえで、アンディ・ウォホールとのコラボレーションにおいて、慣習的なロック・コンサートの形式そのものへ疑問を投げかけ、拡大したメディアとして扱った。いうまでもなく、映画館を借りきってのライト・ショウを含めての“ハプニング”的なライブ・パフォーマンス“エクスプローディング・プラスティック・インエヴィタブル”だ。

 その後、UKではDeaf SchoolやRoxy Musicといったバンドはロックンロールを洗練されたキャンプ趣味としてショーアップし正当化した。Roxy Musicのボーカリスト、ブライアン・フェリーはニューキャッスル大学でUKのポップ・アート派の筆頭リチャード・ハミルトンのもとで美術を学び、マルセル・デュシャンの歴史転換的な“レディメイド”の概念をポップ音楽に当て嵌めた。Roxy Musicに貫かれたキャンプ趣味は--例えばブライアン・フェリーのソロに収められた「Tokyo Joe」でもーーデュシャンの有名な「L.H.O.O.Q」のように表層なので、そこでは1970年代に到来していたいわゆるマス・コミュニケーション時代に最適化されたダンスとスタイル、真剣に取り組む価値ある媒体の形式として、ロックンロールは選ばれていたのだ。

 アメリカと日本という隣接された二つの空間と時間のなかで実践されたのがキャロルであり、村八分、もっというなら細野晴臣と松本隆がいたApryl Foolの可能性でさえあった、というのはどうだろうか。

 修学旅行に行かずに、来日したデヴィッド・ボウイを観た早熟な、日本初のダンス・ミュージック・レーベル〈メジャー・フォース〉の設立メンバーであり、日本のヒップホップの初期を語る際に外せないアーティストの中西俊夫は、1970年代半ばにVelvet UndergroundやDeaf School、Roxy Music、それにKraftwerkといったバンドに触発されてPlasticsとして音楽活動を始めたという。それ以前のLed Zeppelin、もしくはGrand Funk Railroadといったバンドだけ聞いていたら彼は活動を始めなかった、と。

 その舞台は、中西俊夫が“ポップ・ライフ”と呼んだ生活が成立した、そして1983年には『ワイルド・スタイル』の一行が訪れた原宿--“ポップ・ライフ”は1990年代の“裏原”カルチャーへと続いただろう。世界中の都市のほんの一画での、消費主義が後押しした共通言語としてのポップ・カルチャーのありかた。そして、それを動かし集う“ビューティフル・ピープル”たち。デザイナー、モデル、フォトグラファー、スタイリスト、世界を往き来する編集者、そして秘密めいた無数のショップ、選ばれた業界人種だけがハングアウトする場所としてのカフェ、バー、レストラン。

 1958年、原宿の交差点に居残った米軍関係者や外国人向けのセントラル・アパートが竣工。このアパートに、1960年代から名だたるメディア人種が事務所や住居を構えるようになっていく。David Bowieの写真をはじめとしたポートレート写真やYellow Magic Orchestraのアルバム・アート・ワークを撮影した鋤田正義、Plasticsの立花ハジメが師事していたグラフィック・デザイナー奥村靫正……枚挙にいとまなく、瞬く間にセントラル・アパートは“ポップ・ライフ”世界のランドマークと化していく。

 そのなかでロックンロールとスタイルというなら、俳優の岩城滉一と舘ひろしの出会いからバイカーたちが原宿で結成したロックンロール・グループ、COOLSのメンバーたちは中西俊夫らと隣り合わせに仕事をしていて面識もあった。中西も彼らもその周辺にしかなかったような同じ店で服を買い、靴をオーダーする生活をしていたし、舘ひろしとは当時のガールフレンドのイギリス人モデルが共通の友人でよく家に遊びに行ったという。1975年、彼らのファースト・アルバムをプロデュースしたのは、当時からポップ音楽においてのダンスとスタイルの重要性に気がついていた特筆すべき才能の持ち主、近田春夫だ。COOLSのような現在も活動しているバンドの長く複雑な歴史から1曲を取り上げるのは公平さから離れるが、「シンデレラ・リバティ」(1981)のような曲のパフォーマンスを見ると、後にウォン・カーウァイが映画『恋する惑星』(1994)でスクリーン上に実現した感覚世界と彼らが共有していたものがはっきり見えてくる。

 1974年、デュッセルドルの4人組Kraftwerkが、10年前のThe Beach Boysのヒット、無邪気な「Barbara Ann」をドイツ、ひいては汎ヨーロッパ的なパースペクティヴから読み替えたカバー「Autobahn」をリリースし、それはニューヨークのサウス・ブロンクスのスケートディスコで楽しむアフロ・アメリカンたちに届いた。その数年後、YMOがリズム&ブルーズの大ヒット「Tighten Up」を、エレクトリック・ディスコ・カバーし、ヒップホップの創始者アフリカ・バンバータに戻ることのない影響を与えたことは以前記した。アメリカのダンス・ミュージックの書き換えであることがそのふたつの共通点であることはいうまでもない。(当連載第3回:YMOとアフリカ・バンバータの共振)

 音楽をダンスしながら楽しむディスコ/クラブという場所がそもそも生まれたのは、戦後はフランスのマルセイユだった。当初の呼び名であるディスコティークの語源は、レコード・ライブラリーのことだ。パリからロンドンへ飛び火し、そこでクラブにおけるDJという立場、もしくは職業が発明されたとされる。ジャズからリズム&ブルーズやロックンロールへと、プレイされる音楽が変わっていくが、現在のDJの多くを条件づける2台のターンテーブル(レコード、CD、データ音源)によるプレイ、それに基礎的だが音楽聴取を根源的に変えたDJのテクニックのいくつか、サウンドのコラージュ的な発想とそれを具体化したビート・ミキシングとそれに付随するロング・ミックスなどは、1968〜1969年にフランシス・グラッソというDJによって発明されたとされるのが一般的だ。

 1966年には、もう東京は新宿にもクラブ/ディスコが出来ていた。通称で“踊り場”と呼ばれていたそうした場のひとつは”ジ・アザー/the other”と名付けられていた。

「ザ・ビートルズの来日公演はハジメが中学3年生のときだが、学級委員長を務めるようなな優等生としては、あの騒ぎも人並みの関心という程度で素通り、そしてめでたく高校受験に合格(中略)もっとも合格後は反動で、軽自動車の免許を取得し、エヌ・サン(ホンダN360)を乗りまわし、ジ・アザーなど新宿のディスコ狂いを始めるようになった」(今野雄二による立花ハジメのインタビュー)

 また、細野晴臣も1960年代後半、野上眞宏、柳田優らと六本木のディスコ/クラブによく踊りに行っていたという。

 現在と同じように、イデオローグな特別な音楽ファンをのぞき、ディスコ/クラブに出かけていた客は白い音楽と黒い音楽の区別はせず、ダンスを楽しんでいただろう。映画監督/実験映像作家/理論家の松本俊夫のマルチ・プロジェクション作品『つぶれかかった右眼のために』(1968年)に記録された当時の新宿の”踊り場“の様子ではダンスする客たちとそこでプレイされていたアレサ・フランクリンの「Respect」やThe Rolling Stonesの「Paint It, Black」も背景から聞こえてくる。

 ディスコ/クラブは新宿から六本木、渋谷、そして赤坂でもオープンしていく。後に渋谷のQFRONTや横浜のみなとみらいを手がけたプロデューサー・浜野安宏による赤坂の“大人を踊らせる”というコンセプトのMUGENでは、ライト・ショーが行われ、DJのプレイだけでなく、1970年代にはIKE & TINA TURNER、SAM & DAVE、B.B.キングといったアーティストの来日コンサートまでが開催されていた。客層は当時と現在までにいたる東京と日本のカルチャーの担い手たちを中心としていた。遊びはインプットであり、ダンスがそこにもあった。

 1960年代半ばから1970年代終わりの10年ほどの間、主流のダンス・ミュージックはロックンロールとリズム&ブルースからソウル、ファンク、そしてディスコへと変化していった。その最後尾に現れたのが、ナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズの2人を中心としたChicだ。一方、同時代の日本ではフュージョンから“シティ・ポップ”が芽生え、それはやがて全盛を迎える予感に煌めきつつあった。(荏開津広)