東アジア初の女帝として知られる推古天皇は本当に「中継ぎ」にすぎなかったのか?

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女性の天皇は「形ばかり」だったの?

今上天皇の「生前退位」、「女性天皇」「女性宮家」などの単語がメディアに登場する今日この頃。過去、日本には女性天皇がいたことをご存じの方も多いでしょう。

これまで日本には、10代8人の女性天皇が存在しました。しかし、これまでの定説では、彼女達はあくまで男性の皇位継承者が不在の場合の『中継ぎ』に過ぎず、天皇としての実権は持たなかった、とされていました。

例えば、東アジア初の女帝として知られる推古天皇は「形ばかりの天皇」で、政治は摂政の聖徳太子と、おじにあたる蘇我馬子が握っていたと言われてきました。

土佐光芳画「推古天皇像」画像:Wikipedia

これ、本当にそうだったのでしょうか?

2人の有能な政治家が天皇を補佐

聖徳太子は、歴史の教科書にも登場し、目にしたことがない人はいないくらい、日本史上で最も有名な人物の1人です。聖徳太子は、女帝である推古天皇に代わり、摂政として政治を行った人物とされ、憲法17条の制定、四天王寺の建立、遣隋使の派遣などの功績を残しています。

『唐本御影』画像:Wikipedia

「聖徳太子は実は存在しなかった」という説が流れた時期もありましたが、その存在を否定する根拠がないことは『播磨国風土記』などの記載からも明らかです。

彼が有能な政治家であったことに疑いの余地はありませんが、この時代には、天皇の権限を代行する「摂政」は未成立で、皇位継承のための「皇太子」という地位も確立していませんでした。

また、蘇我馬子の権力は天皇の外戚であったからこそ確立されていたものであり、当時の天皇の地位や権力を考えると、天皇を差し置いて政治の実権を握れるようなものではありませんでした。

『上宮聖徳法王帝説』には、聖徳太子と蘇我馬子は、「共に天下の政(まつりごと)を輔(たす)く」と記載され、「リーダーシップを発揮する推古天皇の元で、聖徳大使と蘇我馬子が補佐を行っていた」というのが、最近の定説となっています。

有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す 恙なきや」
という文書は、推古天皇の時代に遣隋使・小野妹子が隋へ持参した国書です。「日の出る所の皇帝(天皇)が、日の沈む所の皇帝に手紙を書く。元気か!?」との、大国である隋と日本は対等であるという立場を主張したこの手紙も、推古天皇の指示でしたためられたもの。

更に再び遣隋使として派遣された小野妹子に託された日本からの国書には「東(やまと)の天皇敬(つつし)みて 西(もろこし)の皇帝に白(もう)す」と書かれていました。

これは日本史に初めて「天皇」という言葉が登場した文書と言われています。当時絶大な力を持っていた大国・隋に対してこのように「日本はあなたの属国ではありません。あなたと平等で、上下関係はありません」とはっきりと明言する国書が、「お飾り」にすぎない天皇の指示で送られたものとは、とても思えませんよね?

聖徳太子と縁が深い法隆寺 画像:Wikipedia

推古天皇の即位した時期の日本をめぐる国際情勢は、現代に負けず劣らず、油断のならない状況でした。そんな時代だからこそ、お飾りや中継ぎではなく、真のリーダーにふさわしい天皇が求められていて、それに最もふさわしいとして選ばれたのが推古天皇だったと考えるのが妥当でしょう。

歴史上の女性天皇達の実績は、これだけにとどまりません。ニュースで「女性天皇」「女性宮家」という言葉を見聞きしたら、歴史上の女帝の活躍に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?