子を産み、子を育て、家を守る。

昔からあるべき女性の姿とされてきた、“良妻賢母”。

しかしその価値観は、現代においてはもう古い。

結婚して子どもを産んでも、男性と同等に働く女性が増えた今こそ、良妻賢母の定義を見直す時だ。

レコード会社で働くゆり子は、育休から時短勤務で復職した佳乃に対して不満を募らせていた。佳乃の夫・紀之を食事に誘うも、2回目は断られてしまい不満は溜まる一方だった。




紀之から断られたことは、少なからずゆり子のプライドを傷つけた。

彼のことが、好きなわけではない。

紀之を誘ったのは、どちらかと言うと佳乃への嫉妬心だった。

それに、昔自分が振った男は、何年経ってもこちらから誘えばほいほいと乗ってくる。そんな思いも少しだけあった。

彼は、私に振られたから佳乃にいったのだ。きっと、本当に好きで手に入れたかったのは、私の方だ―。

そんな思いが無意識のうちにあったのかもしれない。

だが紀之は、あくまで同僚として接してきた。まるで、2人の過去なんて、なかったかのように。

―過去の栄光にすがる女。

嫌な言葉が脳裏に浮かび、「はぁ」と大きくため息をついた。

結婚して子どもを産んだら、女であることを辞める自由が得られる。

ゆり子は時折、それがものすごく羨ましく思える時がある。


女であることを辞められないつらさを語る。


もともと結婚願望が希薄なゆり子は、独身生活を謳歌していた。

若い頃と比べるとさすがに減ってしまったが、デート相手は今も数人いる。ご多分にもれず、男性たちはバツイチだが、酸いも甘いも知っている彼らと過ごす時間は、ゆり子の女としての部分を十分に満たしてくれる。

だがやはり、年齢には抗えない。

目尻にうっすら皺が入り、身体はのっぺりとして、きゅっと引き締まった足首も失いかけているのが現実だ。

しかしそれでも、結婚もせず子どももいないゆり子のような女性は、女で居続けなければならない。

いつも身綺麗にして、100%の女として、少しの隙もみせられない。

少しでも手を抜いた途端、それを鋭く見抜いた女たちがヒソヒソと良からぬことを囁き合い、哀れまれてしまうのだ。その現実が、煩わしくて仕方ない時がある。

佳乃のように母となった女性は、そのステージから「あがる」こともできるし居続けることもできる。100%の女でなくなっても「子どもがいるから仕方ないよね」とまわりが寛容になるのだ。

結婚して子どもを産むということは、その自由を手に入れることでもある。

それが、彼女への嫉妬に繋がっているのかもしれない。だが、自分の嫉妬心に気付くと、嫉妬している自分を嫌悪することになる。

―だから余計にややこしのよ。

『No.4』でのランチを終えて店を出ると、すっかり高くなった太陽を睨みながら、ゆり子は小さくつぶやいたのだった。




仕事の繁忙期に起こった事件


この数年、音楽フェスが夏の定番となり、レコード会社にとって夏は年末と同じくらいの繁忙期となっている。

ゆり子が所属しているのは、コンサート関連のグッズを制作する部署のため、夏の忙しさは尋常ではない。

制作されたグッズの数が100個単位で違っていたり、配送手配でミスが発覚したりと、連日部署内は混乱気味だ。

そんな、ただでさえ多忙な時期に追い打ちをかける出来事が起こった。


生活のバランスが乱れ、疲弊していくゆり子の心。


母親が家の段差でつまづき、足と手首を骨折したのだ。

1週間入院したため、お見舞いと父の世話とで会社、病院、自宅、実家を、言葉通り駆けずり回ることになった。

退院後も日常生活に支障をきたすため、実家通いは続いた。

まだ動けない母。家のことは何もできない父。2人の世話をしなければならなかった。




今までよりも2時間早く起きて、身支度を整え徒歩5分の実家へ行く。3人分の朝食を作って母の介助をしながら慌ただしく朝食をすませる。

「お母さん、今はこういうサービスもあるのよ」

そう言って、親世代のためのお弁当宅配や家事代行してくれる会社を教えたが、母親は首を横に振るばかり。

父親が会社を経営していた当時に蓄えた資産と、所有するマンションの不動産収入があるため、お金の問題ではないらしい。根が働き者であるためか、母親はそういうサービスに頼るなら、と無理して自分で動こうとしてしまうのだ。

だから、仕方なくゆり子が世話をしに行くことになる。そうして繁忙期に遅刻や早退を繰り返すことになった。

同僚たちが心配してくれたのは最初の1週間ほどで、次第に彼らの冷たい視線を感じるようになった。

さらに、遅刻や早退が続けば会社からの人事考課がマイナスになってしまうのも気がかりだった。

もともと気が強く、負けず嫌いなゆり子だ。

いくら家族のためとはいえ自分以外の都合で仕事がうまくいかなかったり、実力をだしきれないなんていう状況は、許しがたかった。

自分の体調が悪くて仕事を休むのでさえ、居心地の悪さと申し訳なさを感じるというのに、家族のために休まざるを得ないこと。それが会社という組織ではこんなにも肩身の狭い思いを強いられ、なおかつシビアに見られるという現実を、嫌と言うほど思い知らされた。



木曜日の15時、部署内のメーリングリスト宛に1通のメールが入った。

『子どもが熱を出したと保育園から連絡がきたため、大変恐縮ですが早退させていただきます。いつも申し訳ありません。』

そのメールを読んでいる間に、佳乃がバタバタとデスクから離れる姿が見えた。

まわりにぺこぺこ頭を下げ、身を縮めながら早足で去って行く。

小さくなる背中を見ながら、彼女の複雑な気持ちが痛いほど伝わってきた。

たしかに、佳乃がこうして早退すると、まわりにしわ寄せがいく。だが果たして、そこまで彼女が謝らなければならないのだろうか。

ゆり子自身、「子どもをつくった本人の責任だ」と思っていた時期もあった。

だが、そう斬り捨ててしまうのは、建設的ではない。

立場は違うにせよ、いつかきっと自分にも、同じような状況が降りかかってくるのだと、今回のことで身に沁みた。

長い仕事人生で、女性は男性以上に自分以外の理由で働き続けることが難しくなる時期がある。

結婚、出産、育児、介護……。女性はいつも、自分の人生と仕事を秤にかけなければならない。悔しいが、それが今の東京の現実である。

佳乃を責めたところで、何になるのだろう。

佳乃を苦しめることは、自分の首を絞めることと同じなのかもしれない。

ゆり子はこの日初めて、佳乃に嫉妬していた自分を大いに恥じた。

▶NEXT:7月13日 木曜更新予定
あかりのことで、佳乃と紀之にショックなことが起きてしまう。