『オンリー・ゴッド』は失敗作だったのか? N・W・レフン監督の苦悩捉えた迫真ドキュメンタリー

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 賛否の渦を巻き起こした世紀の問題作、『オンリー・ゴッド』。ヒット作『ドライヴ』によって、次作への期待が集まっていたニコラス・ウィンディング・レフン監督が撮った、このあまりに奇妙な映画は一体何だったのか。その謎に迫るドキュメンタリー映画が、このほど公開される。

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 この映像作品『マイ・ライフ・ディレクテッド・バイ・ニコラス・ウィンディング・レフン』を撮影、監督したのは、ニコラス・ウィンディング・レフン(以下レフン)監督の妻で、女優のリブ・コーフィックセンである。レフンに最も近しい存在である彼女が、夫にカメラを向けた映像は、『オンリー・ゴッド』製作時の、彼の撮影風景のみならず、他人に見せることのないプライべートな姿や、製作がうまくいかず苦悩する姿まで映し出していた。

■謎の問題作『オンリー・ゴッド』とは何だったのか

 『オンリー・ゴッド』を初めて劇場で観たときの衝撃をよく覚えている。主演のライアン・ゴズリングや、レフン監督の名を知らしめた『ドライヴ』がスマッシュ・ヒットしたという経緯もあり、日本では比較的大規模公開されていたはずだ。そのおかげで、私もこの作品を地元のシネコンで気軽に観ることができたのだが、鑑賞中に背筋が凍りついてしまった。ハンサムなライアン・ゴズリング演じる主人公は、ほとんど活躍することがなく、代わりに、タイの俳優、ヴィタヤ・パンスリンガムが演じる、背が小さく頭髪の薄い謎のアジア人が、あたかも神の執行者のように、圧倒的な武力で次々と罪人を裁いていき、カラオケを歌うシーンが繰り返されるのである。一体、これは…。

 最小限の説明と、美的に研ぎ澄まされた色彩感覚。たしかに、『ドライヴ』に共通する要素は多い。だが『ドライヴ』は、ライアン・ゴズリング演じるはぐれ者が、悪者から一家を救うという、西部劇『シェーン』のような、きわめて分かりやすい娯楽映画の定型に沿っていたため、それらの実験的な要素が、多くの観客に受け入れやすく、新しい作品だと評価されたのである。

 一つの作品のなかで新しい要素があまりにも多いと、観客が理解しきれず、どんどん脱落していってしまう。広く評価される作品を作るには、『ドライヴ』のように、ある程度は「お約束」の展開を用意したり、カー・チェイスなどのアクションや、ポップでオシャレな表現を散りばめるなど、観客へのサービスが必要であることは確かだ。『オンリー・ゴッド』は、そのような気配りがあまり見られず、実験的な部分がゴリゴリに先鋭化したものになっていたのである。

■『オンリー・ゴッド』は、作家主義の権化である

 『オンリー・ゴッド』で描かれた物語とテーマを要約してみよう。タイ王国の首都バンコクに、ボクシングジム経営を隠れ蓑に、違法なドラッグ・ビジネスを営むアメリカ人の兄弟がいた。ある日、性的な衝動をきっかけにして、兄は現地の少女を無残にも、なぶり殺しにしてしまう。そして彼もまた、ある男の手引きによって殺されることになる。事態の解明に乗り出した弟ジュリアン(ライアン・ゴズリング)と、信じがたいほど口の悪い差別主義者である母親(クリスティン・スコット・トーマス)は、バンコクの街で裁きを執行し続ける謎の男にたどり着く。

 ここに描かれているのは、かつてイギリスが、インドや中国でアヘン貿易を行って不当な利益を得ていたように、西洋の傲慢な覇権主義と、彼らに支配され簒奪される東洋という構図である。植民地の歴史や、経済力や軍事力による東西の関係を、抽象的に表現しているように見えるのだ。ゆえに、本作におけるアメリカ人一家は、裁かれるべき罪人として象徴的に描かれる。また同時に、ジュリアン自身が過去に犯した殺人への苦悩と贖罪も、謎の執行者によって裁かれようとする。そこにあるのは、前向きなカタルシスが排除された、陰鬱で痛みをともなう内省的世界である。

 映画を観ながら私は、賛否が分かれることは間違いないだろうし、むしろ否定的な評価が多く集まるだろうと確信していた。しかしそれ以上に、激しく興奮していたことも事実である。ここまで観客に媚びずに、自分のやりたいことを自由に貫き通した映画は、めったにあるものではない。映画が終わったときに、あまりの感激に、珍しくひとりで拍手をしていた。この映画を世に送り出したレフンの勇気、そして狂気に身をゆだねようとする、真摯な姿勢に対してである。これこそ、真に「作家主義」といえる映画だ。

■漂い出す「失敗の予感」

 しかし、こんな作品を撮った背景には、やはりとんでもない苦労と苦悩が隠されていたらしい。本作『マイ・ライフ・ディレクテッド・バイ・ニコラス・ウィンディング・レフン』は、『オンリー・ゴッド』撮影前に、タイの高層住宅に移り住んでまで作品の準備をするレフンと、彼に同行して一緒に暮らす、妻や子供たちの生活が映し出される。

 面白いのは、レフンは撮影前の準備段階から、「『ドライヴ』ほど売れないだろうな…」と弱音を吐いているという事実である。妻のリブも、「私も売れないと思う」と同意する。彼らは、これまでの経験から、ある程度の展開が予想できてしまうのである。撮影が始まると、次第にレフンは弱音を吐くことも、苛立つ場面も多くなって、「失敗」の予感が濃く漂ってくる。もちろん失敗はしたくないし、するつもりもない。しかし、失敗を示す要素がいくつも顔を出し始めるのだ。それを感じながらも、彼らはもう動き出した撮影スケジュールを止めることはできない。これが映画製作のおそろしさである。

 撮影が進むごとにレフンは不機嫌になり、それが家庭の不和を呼び、リブもまた疲弊していく。そして、レフンの口からとうとう漏れてしまう禁句。「駄作だ!」「失敗だ!」

■ホドロフスキーのタロットカードに翻弄される

 本作では、レフン夫妻と、高齢の映画監督アレハンドロ・ホドロフスキーとの交流も写し取られている。ホドロフスキーといえば、『エル・トポ』や『ホーリー・マウンテン』など、実験的なカルト映画を撮ってきた、伝説的前衛監督であるとともに、何故か半世紀にわたるタロットカードの研究家でもあって、タロットを利用したセラピーも行っている謎めいた人物である。

 じつは、ホドロフスキーの信奉者であるレフンは新作を撮るとき、タロットカードでその行く末を占ってもらっているらしく、『ドライヴ』撮影前にも、『オンリー・ゴッド』の企画時や完成間近にも、ホドロフスキーに何度も教えを乞うていた。撮影の前、レフンが『オンリー・ゴッド』を撮るべきか訊ねると、ホドロフスキーは「撮らなければならない」と発言したと伝えられている。本作では、『オンリー・ゴッド』撮影後に占ってもらった場面が記録されているが、憔悴したレフンが再度、『オンリー・ゴッド』を撮るべきだったのかと訊ねると、ホドロフスキーは、「大きな成功は忘れなさい」と伝える。ホドロフスキー…それは無責任過ぎないだろうか。

 このときのホドロフスキーのアドバイスは、成功を意識せず楽しむことが重要とのことだった。仮に彼のタロットを信じるならば、『オンリー・ゴッド』は、興行的な成功、失敗に関わらず、レフンの作家性にとっては、絶対に必要なものだったという意味なのだろう。そう考えれば、『オンリー・ゴッド』は失敗などではない。「作家」にとって真の「失敗」とは、挑戦しないことなのだ。

■芸術家を支える家族の本音

 ホドロフスキーは、本作を撮っているリブにもアドバイスを与えている。それは、「彼を支える存在になりなさい」というものだった。彼女は、本当にそれしかないのか、自分は夫を支え、子どもたちの面倒を見ることでしか自己実現はないのかという悩みにさいなまれていた。本作のタイトル、『マイ・ライフ・ディレクテッド・バイ・ニコラス・ウィンディング・レフン』(ニコラス・ウィンディング・レフンによって監督された私の人生)というのは、「自分の人生を自分自身が生きることができていない」という、夫への痛烈な不満の発露になっている。そんな彼女に、レフンは、「あれ(『オンリー・ゴッド』)は僕たちの作品だよ」と言って慰める。

 映画を支えるのは、監督個人だけではない。多くのスタッフや出演者などはもちろん、その裏には、自らの人生を犠牲にして、好きなことをさせ、支えてあげる家族の献身があるのである。本作のように、支える側がそれを積極的に望まないとしても、である。(小野寺系)