実はバツイチ、海外志向の初妻とのすれ違い

 習近平夫人、彭麗媛(ほうれいえん)(53)のことは中国人なら誰もが知っている。彭はヒット曲「我愛你塞北的雪」「在希望的田野上」で三十年以上前から全国にその名を知られる国民的歌手だからだ。

 なぜ共産党の有力幹部が芸能人と結婚したのか。日本人にはわかりにくいことかもしれない。だが、彼らと同時代を生きた中国人には容易に理解できることだ。

 私は上海出身の研究者で長年、政治家の経歴を研究してきた。共産党が支配する国の政治を理解するうえで経歴や人脈はとても重要だ。本稿では、これまでの中国や香港、台湾での報道や中国に住む知人からの情報を元に習近平の「私生活」に迫ってみたい。

 実は、彭麗媛とは再婚である。

 習は一九七九年に清華大学を出てまもなく二十六歳の時に駐英大使・柯華(かか)の娘、霊霊(れいれい)(玲玲とも)と結婚した。柯華は習の父仲勲(ちゅうくん)の元部下で、仲勲が西北地方の幹部だった時、その地域に住む少数民族を相手に交渉の仕事をしていた。英語ができたのでその後、外交官に転じたのだ。

 中国共産党では、高級幹部の子弟同士が結婚することは珍しいことではない。子弟は北京の同じ地域で育つので、習は、三つほど年上の霊霊を子供の頃から知っていた。

 結婚生活は約三年と短かった。原因は、霊霊がイギリスへ移住したがったからである。習は八一中学(軍関係の子弟が多い)に通ったが、霊霊は北京で唯一のロシア式教育を実施する一〇一中学を卒業した。この中学の制服は西洋風で、女生徒はスカート。世の中人民服ばかりの当時は珍しかった。父の仕事の関係でアフリカなどに住んだ経験もあり、子供とはいえ、当時としては珍しく海外事情に通じ、おそらく共産党のイデオロギーなどほとんど信じていなかっただろう。大飢饉の時代、学校で「いま北京で何が一番売れているか知ってる? 棺桶よ」と言ってクラスメートを驚かせたエピソードもある。背が高い美人で開放的な性格だった。

 結婚した頃、ちょうど父が駐英大使だったこともあり、「イギリスに移住しましょう」と言い出した。中国に明るい未来はないと誰もが思っていた時代だ。霊霊は留学を希望していた。

 だが習は、党中央軍事委員会の秘書という願ってもないポストに就いたばかりだ。政治を志す野心的な青年には、これ以上のポストはない。

 二人の間で「イギリスに行く、行かない」のケンカが絶えなかったという。習にしてみれば、七年間の下放生活で苦労したあとようやくたどり着いた中央での仕事だ。イギリスなどに行っている場合ではなかった。離婚後、柯霊霊は移住し、いまもイギリスに住んでいると言われる。

「そのとき私はぐらついたの」――心が通じ合った習と歌姫

 その後、習は河北省での勤務を経て、八五年に福建省アモイ市の副市長となる。そこで紹介されたのが当時二十三歳の歌手、彭麗媛だ。すでにヒット曲にも恵まれ、「在希望的田野上」は全国いたるところで流れていた。

 習に紹介したのは、元人民解放軍海軍トップの子、蕭卓能。蕭は習の八一中学の先輩で、父親同士が延安時代から親しく家族ぐるみの付き合いだった。人気歌手の李谷一と結婚して、習の再婚相手を探してくれたのだ。李と彭は、歌手養成の名手として知られる金鉄霖(中国音楽学院)のきょうだい弟子だった。

 彭は山東省の農家の娘だったが、天性の声に恵まれ、五歳で舞台に上がって歌を披露し、十五歳の時に山東芸術学校に進んだ。転機となったのは八〇年、山東テレビ局に推薦され北京で開催された全国歌謡曲コンクールで入選したことだ。これが解放軍総政治部文工団(宣伝活動に従事する文芸団体)の目に留まり、入隊して「軍営歌姫」の道を歩むことになる。

 彭は、勉強熱心で軍に所属しながら中国音楽学院声楽部で学んだ。八四年には、中日青年交流の夕べで芹洋子とともに中日の政府要人を前に歌うという大役にも選ばれた。

 習に紹介された頃は、軍営の歌姫として全国に知られ始めたときだった。そのため彼女は習がアモイに勤務していると聞くと、「別れて住むのではダメね」と話していた。会うのも断るつもりだったが、蕭が習のことを「群を抜いてすばらしい」とほめるので、一応顔だけでも見ることにした。

 見合いの当日、彭はわざと緩めの軍用ズボンをはいて行った。習が見た目で人を判断するかどうか試そうとしたのだ。習に会った瞬間、彭は「この人との結婚はない」と思ったという。習は見るからに田舎者で、老けて見えたからだ。

 しかし習が最初に、「声楽には歌い方がいくつあるの?」と聞いてきたので彭は見方を変えた。「いま流行しているのはどんな曲?」とか、「出演料はいくら?」などと聞いてくる男性が多かったからだ。

 彭が答えると、習は「悪いけど、私はあまりテレビを見ていないので知らないが、あなたは今どんな歌を歌っているの?」と尋ねた。

 彭が「希望の田野で」と答えると「その歌なら聞いたことがある。すごく良かった」。

 これで心が通じ合い、二人は長時間話し込んだだけでなく、次に会う約束まで交わした。彭は振り返る。

「そのとき私はぐらついたの。『彼が私の待っていた人かしら? 純粋だし考えも深い』。あとで彼が私に『会ってから四十分も経たないうちに、私はあなたが私の妻にふさわしい人だとわかった』と言っていた」

 習は彭に「私は行政を担当しているので、一日のうち十時間以上も家のことを構っていられないかもしれない」と正直に告げると、彭は「事業を立派にこなせなければ、家のこともこなせない。両方とも大事よ」と答えた。

お似合いの仲良しカップル――“愛の証”は“インスタントラーメン”?

 障害となったのは彭の両親だ。娘の相手が高級幹部(当時、父・習仲勲は党総書記胡耀邦の側近)の子弟と知って反対したのだ。習の弟、遠平の女性問題のことも聴いて心配になった。習は「私の父も農民の子どもだ。きょうだいはみな平民の子どもと結婚している。第一、私の家族が私たちに一生付いて回るわけではない。私が説明すれば、きっとわかってくれる」と語った。

 実際、習は彭の両親に挨拶に行ったようだが、障害は完全には取り除けなかったようで、二人は家族を呼ばないまま結婚式を挙げた。記念写真の撮影、結婚登記証の提出、市長への報告、その晩、同僚や上司らを招く食事会の案内の送付を一日でやってしまった。八七年九月一日のことだ(エピソードは『中国高端訪問(1)』二〇〇六年などより)。

 彭の家族は警戒したようだが、彭にとって高級幹部の子弟との結婚は悪い話ではない。ヒット曲があるとはいえ、歌手には将来の保証はない。当時はまだ民間企業もなく、中国は貧しかった。豊かさは政治的な階層に比例していたのだ。将来まさか、国家主席になるとは思わなかったにせよ、三十三歳のアモイ副市長が将来、党中央の幹部になる可能性は十分あった。そういう意味で二人はお似合いのカップルだったのだ。


仲睦まじいとされる習近平夫妻 ©getty

 二人の仲立ちをした蕭卓能と李谷一夫妻も高級幹部の子弟と歌手のカップルである。ただ、李は恩師の金鉄霖と結婚していたのに夫を捨て蕭と再婚したため、コンサートで「ショウロウサン(蕭の三番目の息子)!」というブーイングを浴び人気が急落した。蕭はのちに山東省政治協商会議副主席まで務めた後、引退した。高級幹部の子弟と結婚するとそういうリスクもある。

 結婚後、習の地方勤務は続いた。別々に暮らす方が長かったが、二人の仲はとても良いと言われている。

 彭が香港で解放軍芸術団の一員として「香江明月の夜 中秋総合演芸の夕べ」に参加したときには、夫へのお土産として香港で評判の良いインスタントラーメンを一箱買って帰ったことがあったと伝えられる。習の同僚から「あなたの夫にインスタントラーメンばかり食べないように注意してくれ。仕事で遅くなると、習は買い置きした大陸産のインスタントラーメンばかり食べている。おいしくないし、古くなってるから健康面が心配だ」と言われたからだった。それで香港のインスタントラーメンを大量購入したのだ(「廣角鏡」誌、二〇一〇年)。

中国史上“一番人気のファーストレディ”、“露出”は控えめ

 二〇〇七年に上海市のトップに抜擢されるまで、習は全国的には無名の役人だった。彭のほうは人民解放軍歌舞団の顔となり、階級も少将まで上がっていた(解放軍八十周年記念アルバム「我的士兵兄弟」のジャケットも彼女の写真)が、夫を助けることには積極的だった。

 習が浙江省に勤務していた頃、国家主席の江沢民が視察に訪れたことがあった。彭は北京で公演中だったが、公演後に杭州に飛んで帰り、江の前で何曲も歌った。自らピアノを弾き、歌をよく歌う、音楽好きの江は大変喜んだという。

 習は妻を積極的に利用したというわけではない。むしろ共産党という組織においては、有名人の妻は足を引っ張る可能性がある。そのことは、習も十分承知しており用心に抜かりはなかった。

 彭が会いに来ても外部に伝えないだけでなく、夫人同伴が可能な場合でも、「妻を連れて歩くと他人に何かと言われるし、悪い影響もある」とほとんど同伴していない。彭には、人民解放軍以外からも出演依頼が来ることもあったが、「決して走穴(所属組織外の公演に出ること)はするな」と約束させ、彭も厳守していると言われる(『中国高端訪問(1)』など)。

 筆者は上海の友人からこんな話を聞いたことがある。

「習が浙江省のトップだったとき、彭がある公演の後、主催者側から記念撮影などはしないという約束で慰労会に招待された。彭は参加するつもりで夫に相談したところ、習は来賓を調べてみるので返答を延ばすように言った。調査の結果、来賓に浙江省籍の商人がいることがわかり、習は『利用された』と噂が出るのを恐れ、彭に参加を断らせた」

 習が浙江省から上海市のトップになったときに、次の国家のリーダーに抜擢されることが誰の目にも明らかになる。彭の露出はその頃から急激に減った。彭は歌手だが、日本の芸能人とはちがう。共産党員であり、党のルールに忠実に生きてきた。そして、いまや中国史上最も人気のあるファーストレディだ。

 二人の間には、九二年に娘(習明澤)が生れ、ハーバード大学に留学していたことが知られている。幼少時撮影された写真を見る限り、風貌は習に似ているようだ。

出典:文藝春秋2016年2月号

著者:楊中美(中国政治研究者)

(楊中美)