金融庁が入居する中央合同庁舎(「Wikipedia」より)

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「象がアリを踏みつけるのはよくあることだが、今日はアリが象を倒した」

 これが、判決後の記者会見で、原告代理人を務める白井劍弁護士が発した第一声だった。「象」は金融庁、「アリ」は元金融コンサルタントの女性Hさんのことだ。この日の判決で、東京高等裁判所(阿部潤裁判長)は、Hさんの主張を全面的に認め、インサイダー取引などの不正に対する課徴金制度のあり方について、初めて司法として指針を示した。曖昧で一方的な事実認定による「冤罪」が生まれているとの指摘もある、この制度の運用について、司法がタガをはめる画期的な判決だった。

 ところが、この判決の意義を大手メディアは伝えず、判決そのものを無視したメディアもある。そこでここで要旨をお伝えすることにしたい。

 Hさんの身に事件が降りかかったのは、2012年4月24日朝。いきなり自宅に証券取引等監視委員会(SESC)の調査官らが5人ほどやってきた。Hさんは「弁護士を呼びたいので待ってほしい」と頼んだが、彼らは有無を言わさぬ調子で、「任意だから、弁護士を呼ぶ必要ありません」と言って、Hさんを霞が関の金融庁まで連れていき、取り調べを始めた。家の仕事部屋からは、パソコンや書類が押収された。

 疑われていたのは、10年9月29日の東京電力の公募増資に関するインサイダー取引。東電が増資を発表する前に、Hさんが野村証券の営業担当だったAさんから公募増資に関する重要事実を聞き、東電株200株を売り、さらに顧客の米国証券会社X社のトレーダーBさんにも情報を伝えたと、SESCは見ていた。

 一方、Hさんによれば、業界では東電が増資するのではないかという噂は流れていたが、それとは違う風評もあった。Aさんとはさまざまな情報や分析を交換しただけであって、重要事実らしい情報を聞いた覚えはまったくなかった。

 それでも、HさんはSESCの調査には協力した。

「当時、いくつもの増資案件があり、そのたびに増資が発表になる1カ月くらい前から大量の当該企業の株価が売られて下落する現象が起きていました。東電の株価、増資を発表する前から異常な下がりようでした。私のような個人が、たかだか200株を売ったくらいで、そんな下がるはずもありません。大口の機関投資家や海外のファンドが事前に情報を得て、大量に売っているインサイダー取引が行われていたのは明らかです。そうした不正は当然取り締まられるべきだと考えていましたし、私自身については、正直に話せば嫌疑はすぐに晴れると思っていました」

 しかし、そうはならなかった。

 SESCの調査官は、2年前のAさんやBさんのやりとりについて、執拗に問いただしてきた。Hさんにとっては、当時、毎日のように接触していた相手との、なんでもない会話やチャットについて、詳細な記憶はない。あれよあれよという間に、SESCのストーリーに沿った調書がつくられてしまった。説明とは違う趣旨の記載もされた。抗議をしても、ニュアンスを和らげるくらいの訂正しかなされなかったという。

 結局、課徴金の対象として勧告されたのはHさんと、Hさんから情報を聞いたとされたX社だけだった。

 Hさんは金融審判で争った。金融審判は一見、審判官が裁判官役となり、刑事裁判で検察官に相当するSESCの“訴追”を公正に裁いているような構図で行われている。しかし、これはあくまで行政機関による手続のひとつだ。裁判所と検察庁は組織が異なるのに対し、SESCも審判官は同じ金融庁に属している身内。審判においては、「無罪推定」「疑わしきは被告人の利益に」などといった刑事裁判の原則も適用されない。曖昧な事実認定でSESCの主張を追認し、冤罪を生んでいるとの批判もある。

 ちなみに、05年度から始まったこの制度で、昨年度までに426件の決定が出たが、SESCの勧告に対し金融審判で「違反事実なし」の決定はわずか2件だ。

 この制度の問題点については、昨年3月12日に本連載48回目『刑事事件以上に「冤罪」を生みやすい「課徴金制度 ようやく一石を投じる判決』で詳述した。

 Hさんの主張も、まったく聞く耳を持ってもらえなかった。13年6月27日、Hさんに課徴金納付命令が発せられた。一方で、本当にインサイダー取引をやっている者には、なんのおとがめもなし。Hさんは、自分がスケープゴートにされたと感じた。

 命じられた課徴金は6万円。もちろん、払えない額ではない。裁判で争えば、弁護士費用を含め、はるかに高額な訴訟費用を負わなければならないこともわかっていた。これまで、裁判で課徴金納付命令が取り消された前例はなく、裁判で勝てる確証もなかった。

 しかし、どうしても納得がいかなかった。「やっていないことをやったとして、今後の自分の人生を生きることはできない。子どものためにも、それはできないと思った」とHさんは言う。

 そこで、国(金融庁)を相手に、課徴金納付命令の取消を求める行政訴訟を起こした。

●相次ぐ課徴金取り消し訴訟が示すもの

 本件が原因で野村証券を懲戒解雇されたAさんも、解雇無効を求めて提訴した。東京地裁は昨年2月26日の判決で、「野村証券内部でAに重要事実が伝わったと評価できる事情はない」「AがHやX社に重要事実を伝えた事実も認められない」として、Aさんのインサイダー関与を否定。解雇無効と未払い賃金の支払いを命じた。野村証券側は控訴したが、東京高裁は今年3月9日にそれを退け、Aさんの“無罪”が確定した。

 Hさんの裁判でも、東京地裁は昨年5月10日、やはりAさんが東電増資の重要事実を「知っていたとは認められない」と判断し、「その余の事実を判断するまでもない」として、国に本件課徴金納付命令の取り消しを命じた。05年に課徴金制度が始まって、金融庁の決定を取り消す司法判断は初めてだった。

 国側が控訴したが、高裁判決はAさんが重要事実を知らなかったという事実認定を維持。そのうえで、断片的な情報を組み合わせることによって重要事実を認識するに至った場合も、「重要事実を知った」といえるとする国側の主張に対し、そんなことを認めれば、市場の噂やさまざまな開示情報からの分析や推測と違法行為の区別が曖昧になり、客観性や明確性に欠けると一蹴。

「刑罰や課徴金を課す対象となるのは、あくまで法によって規定されている構成要件に該当する内部情報を取得して行った取引でなければならない」として、Hさんのケースのように、曖昧で恣意的な基準でペナルティを課すこともあった金融庁の姿勢を批判した。

 金融庁は「控訴しても国の意見が受け容れられなかったのは遺憾。上告するかどうかは判決内容を精査して対応する」としか述べていないが、厳格な法の適用を求める司法判断を無視することはできないはずだ。

 白井弁護士は「今回の事件は、国家による犯罪だ」と語気を強める。

「ひとつは、金融庁が冤罪をつくってHさんの人権を侵害した。もうひとつは、本当の犯人を逃していることだ。明らかに大がかりなインサイダー取引があったのに、それがまったく解明されていない」

 裁判で、課徴金命令の不当性が明らかになっても、それによって発生した損害が補填されるわけではない。Hさんの場合も、金融コンサルタントの仕事はやめざるをえず、長年携わってきた金融関係の仕事から撤退した。裁判を維持するのにも、費用などがかかった。そうした損害を回収しようとすれば、改めて負担を背負って国家賠償訴訟を起こさなければならない。

 課徴金は、前科になるわけではなく、その金額も不正によって得た利益を剥奪する趣旨なので、それほど高額でないことも少なくない。Hさんのように、むしろ争うほうが高くつく場合では、不服があっても泣き寝入りするケースもあった。

 ところが最近、課徴金命令の取り消しを求める訴訟が次々に起きている。5月30日付日本経済新聞は次のように報じている。

「提訴件数は2010〜12年度は各1件ずつだった。しかし13年度は3件、14年度は6件と急増した。15年度以降は減ったが、17年度に入りこれまでに5件が提訴された。インサイダー取引についての争いが最も多い」

 今回のケースを猛省し、司法が求める丁寧な事実認定と厳密な法の適用に努めないと、制度そのものへの信頼も損なわれる事態に陥るのではないか。
(文=江川紹子/ジャーナリスト)