バックハンドで緩くクロスに打ち込んだボールは、まるで相手の出方や力量を測るための囮(おとり)の一打のようだった。


わずか1時間11分でウインブルドン初戦を制した錦織圭

「僕自身もコーチも、直接はあまり見たことがない」選手との対戦で、「試行錯誤が必要になると思う」という手探り状態で迎えたウインブルドン初戦――。芝での実戦経験がほとんどなく、今大会も直前までクレーで戦っていた相手の片手バックハンドに放ったその打球は、錦織圭のバックサイドへとやや甘く打ち返される。

 この時点で錦織は何かを悟ったかのように、次の瞬間には容赦なくストレートへと強烈なウイナーを叩き込んだ。その後もラリーで優位に立つ錦織は軽々とポイントを重ね、最後は”エアK”で試合立ち上がりのゲームをブレークする。

 グランドスラムの初戦前夜は常に眠りが浅く、この日も「しっかり寝れない」ほどの緊張感を抱いたまま向かったコート……。だが、試合が始まると「相手のミスも多かったので、すぐに緊張は吹っ飛んだ」と冗談めかして振り返る。早々に相手のプレーを見極め、伸び伸びとコートを走り、腕を振る錦織の勝利は、この時点ですでに決まったかのようですらあった。

 錦織vs.マルコ・チェッキナート(イタリア)戦が行なわれたウインブルドンの12番コートは、スタンド常設のショーコートではあるものの、客席数は1000ほどで選手とファンとの距離は近い。その客席に日本人の姿は多く、朝一番に並んでチケットを確保したという日本からのツアー客もいた。

 それら熱心なテニスファンたちは、”聖地”で錦織が見せる躍動感と創造性に溢れるプレーのひとつひとつに、興奮と感激を露わにする。

「すごい!」「うまい!」

 豪快なフォアのウイナーが、あるいは巧みなドロップボレーが決まるたびに、歓声に混じって飛び交う感嘆の声。第1セットの終盤、錦織が深いフォアのストロークで相手を押し込んでからドロップショットを沈めたときには、「うわー、ああいうプレーをやってみたいなー!」と、おそらくは自身もテニスをするのであろう男性の観客がうなった。

 第1セットを6-2で奪った後は、錦織の焦点は勝利のみならず、芝の感触とプレーパターンの確認にシフトしたようだった。ここ数日、練習で重点的に取り組んできた「ネットプレーの際の、前への入って行き方」を実戦で試すかのように、時にはスライスを相手コート深くに流し込み、時にはフォアのアングルショットで相手を外に追い出してからネットに詰めてボレーを決める。それら試合での試みは、「何年か前に比べると、グラス(芝)のプレーをうまくできている」との手応えと自信を錦織に与えていた。

 サーブの調子も徐々に上げ、第2・第3セットではいずれも自身のサービスゲームで2ポイントしか落とさぬ圧巻の内容。試合後、詰めかけるファンのサインの求めにたっぷりと応じた彼は、「次もがんばれー!」の大声援を背に受けると、恥ずかしそうな笑みを浮かべながらコートを後にする。

「この大会は日本の方が多く応援してくれる。小さいコートのほうがよりホーム感があり、いい雰囲気のなかで試合ができます」

 自身を後押ししてくれる声援のなかで、彼は最高のプレーをファンにプレゼントした。

 過去のグランドスラムでの錦織は、開幕戦では勝利するも時間を要することも多かったが、この日の試合時間はわずか1時間11分。

「早く終われば早いに越したことはない。自分のプレーの内容もよかった」

 次の試合を見据えたかのようなスピード勝利を、彼は満足そうに振り返った。

 その次なる戦いの対戦相手は、予選上がりのセルゲイ・スタコフスキー(ウクライナ)。現在のランキングこそ122位だが、最高位は31位で、ツアータイトルも4つ持つ実力者である。なにより、ここウインブルドンでは4年前にロジャー・フェデラー(スイス)を破る大金星を手にしたほどに、芝をもっとも得意とする選手だ。

 さらに今大会では、予選決勝で錦織の友人でもある伊藤竜馬を4時間32分の大熱戦の末に破り、本戦出場を決めている。その一戦では線審や主審のジャッジに幾度もクレームをつけ、ある意味巧みに伊藤のリズムを崩してきた。

 錦織の初戦後の会見時点では、まだ次の対戦相手は決まっていなかった。しかし、彼は「スタコフスキーは倒したいですね」と、長身の芝巧者との対戦を切望するかのように言う。

「たっちゃん(伊藤)がイチャモンつけられて負けたので……リベンジしたいです」

 果たして錦織の声が届いたかのように、会見のおよそ1時間後、スタコフスキーは錦織の待つ一戦へと駒を進めた。

 スタコフスキーは錦織にとっても、6年前の対戦とはいえ過去2度敗れている相手。己の成長を示すためにも、そして盟友の「リベンジ」を果たすためにも……負けられない一戦が、2回戦で彼を待つ。

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