結婚して家を買い、そして子どもを授かる。

今まで「幸せ」だと信じて疑わなかったもの。

しかしそれを信じて突き進んでいくことが、果たして幸せなのだろうか?

外資系化粧品会社でPRとして働く祐実、29歳。

結婚生活3年目。夫の浮気が発覚し、別居を決める。心機一転、人形町での暮らしを楽しもうとする祐実だったが、いまいち吹っ切れない。

そんなとき、祐実にある転機が起きる。




「祐実さん、ちょっと来てくれる?」

母親と会って憂鬱な気分のまま迎えた、月曜日。

10時に出社して席に着くと、祐実は上司である麗子から呼び出された。

「はい……?」

月曜日はいつも、13時からチーム全体のミーティングがある。その前に話したいこととは、一体何のことだろうか。

「朝から、悪いわね」

会議室に入り、麗子はそう言って微笑んだ。

隙のない完璧なメイクに、体のラインがくっきり出る白いワンピース。上司としてだけでなく、女性としても完璧な麗子といると、自然と背筋が伸びる。

「いえ。何か、ありました?」
「実はね。菜々子さんに子どもができて、会社を辞めることになったのよ」
「え!?そうなんですか?」

菜々子は祐実のチームのマネージャーで、今年で35歳になる。昨年結婚して、待望の子どもを授かったらしい。

「良かったですね。でも産休ではなくて、辞めてしまうんですね」
「そうね。彼女はもともと体が強い方ではないし」

祐実の知る限り、麗子はずっと子どもを欲しがっていた。そしてたしかに、“今の仕事量じゃ、子育てと両立できる気がしない”と言っていたのを思い出した。

「それでね、祐実さん」

麗子は真剣な眼差しでこう続けた。

「あなたをマネージャーに推薦しようかと思うのよ」
「え!?私に?」

それは、青天の霹靂だった。


昇進の知らせに、戸惑う祐実。麗子の目論見とは?


「でも私、まだ29歳ですし……」

女だらけの職場で、余計な反感を買いたくないというのが、本音だった。「総合職の女性が管理職になりたがらない」というのは最近ニュースなどでもよく聞く話だが、これには大いに同感した。

“権力”や“肩書き”なんて、いっさい欲しくないのだ。

仕事で重要なのは、やりがいと、理解しあえる仲間たち。祐実は、そう思っていた。

「そうね、若いあなたがマネージャーになったら、ある程度の反感はあるかもしれないわね」

麗子は祐実の本音を見透かすように、さらりと言った。

「でもだからと言って、このままでいいのかしら?私は、あなたの能力を買って、推薦しているのよ」
「能力って……」

祐実がそう口を開きかけたとき、麗子の社用携帯が鳴った。麗子が席に戻って良いと手振りをしたので、祐実はそのままデスクに戻った。



―マネージャー、か。

13時からのミーティング中も、祐実はどこか上の空だった。

たしかに、今の自分は身軽で、いくらでも仕事に打ち込める環境にある。これは、キャリアアップの絶好のチャンスだろう。

―今日、早めに上がれる?食事でもどうかしら。

ミーティングが終わると、麗子からメールが届いていた。「大丈夫です」と返すと店の場所と時間が送られてきた。


今の生活が全てひっくり返っても、子どもが欲しい理由


仕事が終わり、麗子に指定された麻布十番の『オルソ』に向かった。この店は地下にワインセラーが併設されており、ワイン好きな麗子とたまに来る店だ。




「おつかれさま。乾杯!」

食事中、麗子は昼間の話を蒸し返さなかった。

ワインを2杯ほど飲み、気分が良くなってきた祐実は思わず、最近起きたいざこざを麗子に打ち明けた。

菜々子の「子どもができて会社を辞める」という話が、祐実の心を揺るがせたのだ。

「彼は、子どもも欲しいって言っていたんですよ……。でも私、あんまり乗り気になれなくて。結婚して子ども、って当たり前の流れのように考えていたけれど、ふと考えたときに、不安になっちゃって」

「何が、不安だったの?」

「本当に子どもが欲しいか、よく分からないんです。仕事は好きだし、今の生活に何の不満もないのに、それを全てひっくり返してまで子どもが欲しいのかって聞かれたら、分からなくて。子どもを欲しいと思う、大きな理由がなかったんです。

こんなこと考えるなんて、子どもっぽいかなって思いますけど……」


本音を吐露する祐実。麗子の知られざる過去を知る。


祐実の会社には産休から復帰してキャリアを積む女性もいるが、それはほんの一握りだ。時短で働く女性のほとんどはいつもイライラして余裕がないか、女性として諦めているか。どちらかだ。

正直、どれにもなりたくない。

かと言って子どもがいない人生というのも、想像ができなかった。

全て欲しいのに、何も欲しくない。そんな気分だった。

麗子は結婚しているが、子どもはいない。こんな話をするのは、初めてだった。すると麗子は、こう言った。

「私はね、子どもが欲しくて3年頑張ったんだけど、途中で諦めたわ」
「……そうなんですね」
「いいのよ、もう10年も前の話だもの」

麗子にそんな過去があったなんて、知らなかった。

「今は気持ちの整理もついているから、毎日楽しいわ。それでもずいぶん苦しんだわよ。子どもがいない分自由があって良かった、とか、経済的にも余裕があって良かった、とか。私は、“子どもがいなくてもいい理由”を懸命に探したの。

……でもね、途中で気づいたわ。子どもと、お金や時間って比較すべきものじゃないのよ。比較しているうちは、ずっと苦しいんだって」

麗子の打ち明け話に、祐実は自分勝手な己を恥じた。

―結局私は、失敗を恐れて“何も選べていない”のだ。

母親のようになるのは嫌だ、子どもを産んで余裕をなくすのは嫌だ、仕事だけの人生になるのは嫌だ。

幸せな結婚生活も、キャリアアップも。まだいろんな選択肢があると思っているからこそ、大切にできていないのではないだろうか。

そう気づいた瞬間、祐実はこう言っていた。

「マネージャーのお話、引き受けさせていただきます。よろしくお願いします」



翌日、祐実は家の近くの『イレール 人形町』に一人で入った。




人形町は、昔ながらのお店が多いイメージだが、カジュアルなビストロも少なくない。この店は恵比寿から移転したフレンチビストロの店で、平日から賑わっていることが多い。

赤ワインをゆっくり飲みながら、野菜のテリーヌをつまんでいると、祐実の隣に男がやってきた。

「また、会いましたね」

その男は、『芳味亭』で会った男だった。

「今日はお一人ですか?」
「えぇ、実は昇進が決まったもので。一人で前祝いしているんです」
「そうなんですね!おめでとうございます」

突然の話にも関わらず、男は乾杯して新しい酒を注文してくれた。祐実はその男と喋りながら、しかしまだ名前さえも知らないことに気がついた。

▶NEXT:7月10日 月曜更新予定
順調にキャリアアップを果たす祐実。純との仲にも進展が起きる!?