黒柳徹子さんが語る昭和のテレビの話。当時の共演者とのエピソードから今後の目標まで、とっておきのお話を伺った。
(出典:文藝春秋2016年1月号)

アクシデントだらけの昭和のテレビ――セリフを憶えない三木のり平さん

 当時のテレビはすべて生放送ですからアクシデントは毎日何かしら起こりました。「夢であいましょう」のようなバラエティーはまだしも、ドラマもそうですから、今では考えられないことです。

 たとえば一九六一年四月に始まった「若い季節」。日曜夜八時台でしたから、現在の大河ドラマと同じ枠です。初めは前日に集まって稽古していたのが、台本が遅れるようになって、当日の午後一時にNHKで受け取るようになりました。

 それから本番までにセリフを憶えなくてはいけませんからみんな競争です。私はわりと憶えるのが早くて、回を重ねるごとにセリフの数がどんどん増えていきました。脚本家はセリフ憶えのいい人にたくさん押しつけたくなるものなんです。一回の放送で百以上のセリフがあったこともありました。しかも生です。

 それぐらいセリフを憶える時間がないのに、本番前にみんなでご飯を食べに出るんです。新橋に四川飯店があり、そこの料理が食べたくて食べたくて。“四川料理の父”と言われた陳建民さんが作ったお店です。ハナ肇さんが電話で注文して、日比谷にあったNHKから渥美清さん、古今亭志ん朝さん、坂本九ちゃんたちと走って行く。食べたら走って帰って、またセリフを憶える。みんな若かったからできたことですね。

 セリフ憶えがよくなかったのは、三木のり平さんと小沢昭一さんでした。

 のり平さんがすごいのは、初めから憶える気がなくて、あちこちにカンニングペーパーを置いたこと。オフィスのシーンでのり平さんに「課長、この書類にハンコください」と私が言ったら、ハンコを探しているように見せながら、実はお弟子さんが置いたカンペを机の上で探しているんです。私がアドリブで「もう少し要領よくできないですか」とからかうと、「余計なことは言わなくていいの。僕のことだから」とのり平さんが返します。そのうち「あった、あった」とのり平さんがカンペを見つけてセリフを話し出す。そんなアドリブがおかしくて、放送中に笑いが止まらなくなることもありました。

 のり平さんはセリフを忘れてもアドリブで何か面白いことを言うからいいですが、小沢昭一さんはセリフを忘れると黙ってしまう。ある喫茶店のシーンでは、私がセリフを言ったあとでずっと黙っているから、「あなたが言いたいのはコレコレってことでしょ。でも、私はこう思うのよ」と小沢さんのセリフまで言ってあげた。それでも「うん、うん」としか言わない。仕方なく、私が続けて「だったら、私はこういうふうに思う。でもあなたはこういうふうに思うだろうから、その場合、私はこう思うのよ」って、結局一シーンすべて私ひとりで話すことになった。それ以来、小沢さんはテレビドラマに出なくなりましたね(笑)。何年たっても私に「君には助けられたな」と言ってくださいましたけど。

 そうやって若い頃に鍛えられましたから、生放送でも舞台でもぼんやりしないで、自分がなぜここにいるのか、何をすればいいのかと常に意識します。アクシデントが起きたなら、自分で何とかしようと考える癖がつきました。

「徹子の部屋」は一切編集なし

 その意味で、思い出深いアクシデントがいっぱいあるのはTBSの「ザ・ベストテン」です。久米宏さんとのコンビで一九七八年にスタートし、十二年間つづく人気番組になりました。あの番組のディレクターで、二〇一三年に亡くなった山田修爾さんはとても冒険好きで、新幹線のホームや空港の滑走路から歌わせたり、奇抜なスタジオセットをつくったり、伝説的な演出がたくさんありました。それだけに生放送に付きもののトラブルもしょっちゅうでした。

 シブがき隊が歌っている最中には、モックン(本木雅弘さん)のマイクコードが照明の機械に絡まって巻き取られそうになったことがありました。そのとき私はカメラに映らないように這って行ってコードをほどいたのはよかったのですが、その姿がしっかり映ってしまった。でも、歌手のほかにカメラに映ることができるのは司会者しかいないんです。自分が何とかしなくちゃと、とっさに身体が動く。そういう判断は「若い季節」などの生放送で学びました。

 私はずっと「テレビは生放送に限る」と考えてきました。録画番組にない緊張感やハプニングの面白さがありますし、常に真剣勝負ですから番組の質は格段に高くなるように思えます。

 だから、一九七六年二月に「徹子の部屋」(テレビ朝日系)を始めるとき、実際は録画番組であっても生放送と同じ撮り方で、あとで編集を一切入れない、という条件を出しました。二〇一五年五月で放送一万回を超えましたが、その方針は変わりません。編集が入る前提だと、番組づくりが雑になるからです。ゲストは「あそこはカットしてほしい」と要望し、ディレクターは「ここだけは残そう」と考える。それではゲストの本当の姿が伝わらない。

 この番組でゲストが公表していない事実を突然語ることが多いのも、テレビ局の思惑で勝手に編集されないという信頼感があるからでしょう。

 たとえば数年前も俳優の風間トオルさんが、幼い頃にご両親が離婚して、二人とも家を出て、祖父と祖母に育てられたけど、おじいさんのほうは認知症で大変だった、といきなり話し出したことがあります。貧しくて、公園の草を取ってきて食べていたとか。裕福なご家庭で育ったようなイメージがあったのでびっくりしました。そんな大変な苦労をされながら、立派に活躍されて本当に偉い。そのときはたしか二回目の出演の時でしたから、番組を信頼してくださったのでしょう。

 そのような思いがけないエピソードを聞いたときは、カメラの前だからと大げさに驚いたり、わざとらしく同情的になったりすることは絶対にあってはならないことと考えます。私はたいてい静かに「あ、そうだったの」と相槌を打つ程度。その話を初めて聞いた年上の女として、誰もが示すような当然の態度で聞きます。普通の人の気持ちを大事にしなくてはいけないと思うのです。

 ときにはその自然に振る舞った態度が、素っ気ないと思われることもあります。たとえば、お笑い芸人さんが登場したとき。芸人さんの間でも「徹子さんを笑わせるのが難しい」と話題になっているそうですね。「アメトーーク!」(テレビ朝日系)で、ギャグや持ちネタで私が笑わなかった人たちを「徹子の部屋芸人」と呼んでいるとか(笑)。

 間寛平さんがゲストのときも、登場されたらいきなり「かい〜の」とおっしゃって、私が「は?」と言ったら、また「かい〜の」っておっしゃって。それで「あらまぁ、ごめんあそばせ、それ芸ですか?」と尋ねたら、突然また別のギャグを始めたので、普段通り「どうぞ、こちらへお座りください」って言ったんです(笑)。本当に申し訳ないというか、そのときは自分で失礼なことを言っているとは思ってないんです。ただ、そうしないとギャグがずっと続きそうだし、番組を進めないといけないから、もういいじゃないという気持ちでした。

 無理に笑っても、視聴者の方々に嘘をつくことになります。いつも観ている人は「黒柳さんはあんなことでは笑わないはずだ」とすぐ見抜きますから。だから、正直な感想だけ言うんです。

 誤解がないように言いますと、私自身が三十年も舞台でコメディを演じてきましたから、笑うことも笑わせることも大好きなんですよ。誰が好きかといえば、やっぱりチャップリン。現在の日本で、生のチャップリンに会ったことがあるのは私くらいでしょう。ニューヨークでしたけど、本当に素敵でした。あれぐらい面白くなきゃ笑えないという気持ちもあるんです。

一分待った高倉健さんの一言

「徹子の部屋」の企画段階で、生放送形式のほかにも私から出した条件があります。一つはディレクターを替えないこと。当時は四十年もつづくと考えていませんでしたが、放送スタート時からのスタッフは今もいます。最も新しい方でも十年ほど前からでしょうか。

 番組は、ゲストについて事前に調べた情報が重要ですから、毎週金曜に、ゲスト一人当たり一時間以上かけて、六人分の打ち合わせがあります。途中でご飯を食べることもありますが、六時間ほどぶっ通し。手書きのメモは一回につき十三枚ほどにもなり、本番ではテーブルに置いています。作家がゲストのときは、その方のデビュー作、文学賞などの受賞作、最新作と少なくとも三作は読みます。番組の収録は毎週月曜と火曜に三本ずつ。事前の打ち合わせなど中身の濃い番組なので、新しいスタッフに私の性格を呑み込んでもらうのも大変だから、できるだけ替えないようにお願いしたのです。

 ちなみに「徹子の部屋」を始めて、テレビドラマは出演しないことにしました。テレビでは司会やインタビュアーなどに絞り、演じるのは舞台だけにしようと決めたのです。でも、女優をやってよかったなと思うことが「徹子の部屋」でもあります。たとえば私の質問に、相手が黙ってしまったとき。何か答えを言おうとして考えているのか、話す気がなくて黙ったのか、その方の目を注意深く見ているとわかります。

 高倉健さんがお見えになったときにも、そういう場面がありました。健さんは、故郷の九州から女の方を追いかけて東京へ出ていらして、本当は役者になるのは嫌だったけど、お金に困って映画の世界に入った。九州で旅芸人などを見ていたからでしょう。顔におしろいをつけたときに涙が出たと。「でもね、やっぱりそのときは金が必要でしたから。今でも必要ですけど」とおっしゃったんです。そこで「今も必要というのは、どういうときに?」と伺ったら、「そうですねぇ……」と言ったきり、黙ってしまった。健さんの目を覗きこむと、何か答えを考えているとわかって、私も黙って待ちました。一分ほどでしょうけど、ずいぶん長く感じました。これがラジオなら放送事故ですが、健さんがじっと考えている顔は、テレビなら見応えがあるというものです。健さんはようやく口を開き、「……やっぱり幸せの追求のためですかね」とおっしゃったんです。みんなが「よっ! 高倉健!!」とよろこぶような、ぴったりのひと言でした。

 相手が黙ったらせっかちに話しかけるのでなく、そうやって待つことも大切なのです。

マッチとの約束――限界を感じたら“引退勧告”

「徹子の部屋」では延べ一万人以上の方から、素晴らしいお話や興味深いエピソードをたくさん伺うことができました。そのなかでも、戦争に行かれた方から当時の体験を直に聞けたのは、私にとって本当に大きな財産だと思っています。

 俳優の池部良さんも「徹子の部屋」で、戦争体験を語ってくださった一人でした。

 あの方は陸軍将校として乗っていた船が撃沈され、死に物狂いで、部下たちと夜の太平洋に飛び込んだというんです。腰の長い刀は甲板に置いてきたのに、腰に付けたピストルの重みで沈んでしまって、もうダメかと思ったという。ピストルを捨ててなんとか明け方まで泳いでいたら、波間から年上の部下が「上官殿、自分が持っています」といって、船に置いてきた刀を持って泳いでいたんだそうです。「そのときは泣いたね。海の中だから誰にもわからなかっただろうけど、泣いたよ」って。その後に上陸した南方の島では島中に日本兵の死体があって「本当にひどいものを見ました。餓死です」と話していましたね。

 それだけ凄惨な体験がありながら、「青い山脈」みたいな明るい映画に出演されて、みんなから素敵な俳優さんだと思われて、心の中ではどうだったんだろう、と思います。戦場で地獄を見た方たちほど、人間に対する尊敬の念が強かったように感じます。

 三波春夫さんはソ連の近くで激しい銃撃戦を経験されていました。三波さんはトーチカにいて、近くに撃たれたロシア兵が倒れていたそうです。夜になったらその若い兵隊の「ママ、ママ……」と泣く声がずっと聞こえてくる。可哀想だけど助けてあげるわけにはいかない。あの夜の苦しさはよく憶えていると話してくださいました。「本当に戦争は嫌だ、絶対にいけません」と言われ、三波さんがそんなことを言う方とは思ってもみませんでした。

「徹子の部屋」が五十周年を迎える二〇二六年二月は、私は九十二歳。その年齢でも頭がハッキリしているかという問題もありますけど、それについてはマッチ(近藤真彦さん)と約束していることがあります。「徹子の部屋」で何遍も同じことを質問したり、舞台でセリフが言えなかったりしても、周りの人はなかなか私にもう限界だとは言えないでしょう。だから、「ザ・ベストテン」時代から息子みたいなマッチに「黒柳さん、そろそろ辞めたほうがいいよ」と引退勧告して、と頼んでいます。だから、たまにマッチから「黒柳さん」と声をかけられると、「ええっ、もう?」と驚くんです。けどマッチは「違う違う、まだまだ大丈夫」って。でも最近、マッチのほうが「それまで俺、大丈夫かな」って心配しています(笑)。

元気の源は“毎日ヒンズー・スクワット五十回”

 よくみなさんから「どうしてそんなに元気なんですか」って言われますけど、何か特別な栄養剤を飲んでいるわけではなくて、数年前から生活のリズムを変えたことがよかったように思います。

 以前は、夜遅くまで原稿書きや調べものをして、ベッドに入るのは朝五時頃だったんです。最近、午後十時から深夜二時頃までは睡眠中に成長ホルモンが出ると知って、その時間は必ず眠ることにしました。帰宅後はすごい勢いでお化粧を落としてお風呂に入ったら、そのまますぐベッドに入ります。湯船に浸かるのは一分ぐらいなので、寝るまでに三十分もかかりません。すると三時頃に自然と目が覚めて、それから原稿や調べものを始めたら不思議なくらい能率がいいんです。原稿などが終わったら、お酒の入ってない温かい甘酒を飲んでベッドに横たわり、録画しておいたニュースを観ます。そして、五時頃からまた四時間ほど眠るのです。

 ニュースのあとドラマを観ることもあって、「JIN―仁―」「半沢直樹」が面白かったですね。同じ枠の「下町ロケット」もいま観ていますよ。たまに自分が出演したバラエティー番組を観ることもあります。番組中はその瞬間瞬間、口から出る考えを話しているから、よく憶えてないことが多くて、「あら、こんなこと言ったんだ」と面白く思うこともあります。

 運動も大切だと思っていて、二度寝の前にヒンズー・スクワットを五十回。「徹子の部屋」でジャイアント馬場さんに「百歳まで舞台に立ちたければヒンズー・スクワットをやりなさい」と言われて、お手本まで見せていただいたから馬場さんの遺言だと思って毎日つづけています。


元気の源は睡眠と運動 ©山田真美/文藝春秋

 それから昼間は三十分ほどウォーキングしますし、時間をつくっては、できるだけ街を歩くようにしています。「そんなことして、街ゆく人たちに黒柳さんだと騒がれませんか?」とよく言われますけど、誰も私だとは気づかない。まさか、玉ねぎヘアでドレス着て歩いているわけではありませんし(笑)。ただ私の場合、声と話し方に特徴があるから、何か言うときには変化を付けて、(低いトーンの声で)「これください」って。これで、まず相手は気づきません。そこは女優の演技力を発揮しています。

百歳まで舞台に立つのが目標

 私の芸能生活は、テレビと同じ六十二年になりました。そのなかで節目となったのは、三十八歳で一年間のニューヨーク留学に旅立ったことです。

 女としては、結婚して子どもを産むかどうかの岐路に立つ年齢です。実はその頃に結婚を考えた男性がいました。私自身は「結婚よりも仕事が大切」と考えたことは一度もありませんし、もとはといえば、自分の子どもに絵本を上手に読んであげようと思ってNHKを受けたのですから、結婚したくなかったわけではありません。

 ただ、その結婚しようと思った方からこう言われたんです。

「結婚なんてつまらないよ。だって考えてもごらん。君が今晩のおみおつけがうまくいったかどうかなんて考えてるかと思うと、僕は仕事の最中もなんか落ち着かない感じがする。だからもうちょっと自分がどういう人間なのかを探究してみたらどうかな」

 そのときは私も「それはそうかな」と思った程度でしたが、今ふりかえると、その人が言ったことは間違いではなかった。家でおみおつけをつくるのが嫌というわけではありません。でも、結婚しないできたから「徹子の部屋」も四十年つづいたし、舞台の仕事もユニセフの親善大使もできたのだと思います。

 若い頃にお見合いの経験も三回あります。プロポーズされたこともあります。それでも結婚というのはなかなか難しいもので、やはりご縁というのか、決心がつかなかったんですね。ただ、いい恋愛はしたと思います。それほど数は多くありません。でも、素敵な恋愛はありましたね。

 結婚するかしないかは別にしても、いい恋愛はするべきだと思います。それからあとの人生がどう開けようとも、いい恋愛をしたという経験があると、何とか生きていけるものではないかと思うんです。いい恋愛をしないままに生きていくのはなかなか辛い。いい恋愛の思い出があれば、その人が今はいなくても、生きていけるんだなあと思います。

 最近、これまで出会った人々について『トットひとり』という本を書きましたが、森繁さん、沢村貞子さん、渥美清さん、向田邦子さん、坂本九ちゃんたちのことを書いていたら、「ああ、これだけ素晴らしい人たちも、みんな死んでいくんだ」と思えてきた。「老後は三人で一緒に住もう」と話し合っていた山岡久乃さんと池内淳子さんも、もういません。昔、私が「百歳になっても舞台に立ちたい」と話したら、小沢昭一さんに「そうなったら『あのときにさあ』と話してもわかる人がいないよ」と言われ、ワァワァ泣いたことがあります。でも、それは本当だなと実感するようになりました。

 でも、先に亡くなった方たちのことを思い出しながら書いているうちに、なにか死ぬのが怖くなくなったような気もします。

 世の中は「終活」ブームのようですね。自分が死ぬときのことを考えて、トラック何台分も不要なものを捨てたなんて話も聞きますけど、そういう準備は自分にはできそうもない。少し前にも、中国の広州で三つ子のパンダが産まれたというので、一人で飛んでいきました。実際に見たら、まん丸で小さなサッカーボールみたい。本当に可愛くて、お土産屋さんでお母さんパンダに三つ子がのっている巨大なぬいぐるみを買ってしまった。案の定、家で持て余していますが、そんな調子で終活どころではありません。人間なんて、何ともいえないじゃないですか、自分の最期なんて。

 私は以前、「テレビとは『見合い結婚』をしたようなものだ」と書いたことがあります。相手の顔も見ないで結婚して、気がつけば金婚式もとうの昔に過ぎている。いろいろありましたけど、一つ言えるのは、後悔はないということだけですね。

 少なくともあと十年は頑張って「徹子の部屋」の五十周年を迎えるのが第一の目標、それから百歳まで舞台に立つのが次の目標です。そのためには、希望をもって毎日ヒンズー・スクワットは欠かさず続けて、みなさんに見届けていただこうと思っています。

出典:文藝春秋2016年1月号

黒柳徹子(女優)

(黒柳 徹子)