先ごろ引退を発表した、パラ陸上の車いす短距離界の第一人者である永尾嘉章さん。「レーサー」と呼ばれる競技用車いすの歴史(主に永尾さんのT54クラスについて)、アスリートを取り巻く環境の変化などについて、約30年にわたって競技人生を歩んできた永尾さんならではの話を聞いた。


1986年「第6回大分国際車いすマラソン大会」に出場したときは普通の車いすに近い4輪だった/永尾さん提供

 まず、レーサーについて。現在の競技用車いすのレーサーは、日常で使う車いすとは異なる形状をしている。IPC Athletics(国際パラリンピック委員会陸上競技部門)競技規則には、「車いすは最低でも2つの大きな車輪と1つの小さな車輪で構成され、小さな車輪は車いすの前方になければならない」「後輪、前輪の直径は十分に空気を入れたタイヤを含んで、それぞれ70cm、50cmを超えてはならない」などと定められている。

 現在のレーサーは3輪だが、永尾さんが陸上を始めた35年ほど前は、生活用の車いすのタイヤにハンドリム(漕ぎ手の部分)をつけたもので、まだ4輪だった。素材は主にチタン製で、ホイールはスポークホイール。脚を前に出すような形で座っていた。


89年「第9回大分国際車いすマラソン大会」。3輪に進化しているが、脚は前に出す形/永尾さん提供

 その後、より軽いアルミ製のものが主流になり、1990年代に入ると、より空気抵抗が抑えられる3輪へと進化。座位にも変化が見られ、脚を前に出すより前にたたむように座ることで、力が出しやすくなったという。

「このころはまだスポークホイールで、ハンドリムを握るようにして漕いでいました。それに、まだトラックレバー(400mトラックなどでコーナーを曲がる際、前輪を左傾斜に合わせて曲げ固定し、また直進に戻すレバー)がついていないため、カーブは体幹を使って曲がらなければならない。だから、僕のT54と、ひとつ障がいクラスの重い(腹筋が機能しない)T53とのタイム差は大きかったですね」


93年「第4回はまなす全国車いすマラソン」。徐々に現在のレーサーの形に近づいてきている/永尾さん提供

 それから間もなくして、トラックレバーが装着されるようになる。両手で車輪を漕ぎ、スピードを維持しながら、グローブで「コツン」と叩いてレバーを押し込むことで方向操作ができるようになった。

 そして、92年ごろに登場した軽くて丈夫なカーボン製が、現在のレーサーのベースになっているという。車体重量は8〜10kg程度。フレーム全長は1800mm前後で、ホイールは空気抵抗の軽減を実現するカーボンディスクに。脚は正座のようにして完全に折りたたんで座り、ハンドリムも上から叩くようにして力を車輪に伝えるスタイルへと変わった(自力で上半身を起こすことが難しいといった障がいが重い選手は、正座ではなく重心を後ろにした着座姿勢を取ることもある)。


長い月日をかけ改良を重ね、レーサーは現在の形になった/photo by AFLO SPORT

 トラックの平坦部などでは時速30km前後にも達し、マラソンの下り坂では70km近いスピードが出ることもある。高いフレーム剛性は安定した推進力を生み、高速走行も可能なこのレーサーは、「まるでレーシングカーのよう」と形容される。上半身を鍛え上げ、腕の力だけでこれを動かす選手のすごさがわかる。

 マシン性能の進化、選手の身体能力および技術の向上に伴い、記録も伸びる。たとえば、男子T54のパラリンピック100mの記録の変遷をたどると、2000年シドニー大会の予選・決勝を通した最速タイムは14秒36。8年後の北京大会では、予選でレオ=ペッカ選手(フィンランド)が13秒76をマークし、ついに「13秒台」の世界に突入した。また、彼はロンドン大会で13秒63という世界記録を樹立しており、年々、競技性が増していることがわかる。

 より高速走行が可能になったレーサーだが、永尾さんには苦い思い出があるという。2011年、「高速トラック」として知られるスイスの国際大会に出場した永尾さんは、400mでスピードが出すぎてカーブを曲がり切れず、大クラッシュを経験。

「後でビデオを見たところ、トラックレバーを入れるタイミングを失っていた。速すぎて、レーサーをコントロールできていませんでした。これが理由かは定かではありませんが、明くる年からヘルメット着用が義務付けされました」

 この30年間で、練習環境やアスリートを取り巻く環境も変化してきた。永尾さんは現役時代、練習拠点の兵庫県にレーサーでも夜でも、利用できる陸上競技場が新たにできたため、思う存分練習ができたそうだが、かつては練習場所の確保に苦労した。

「4輪のころは、レーサーでトラックを走ると”傷む”と言われて、施設を使いづらい時代があった。だから、メインはロードだったんですよ」

 また、北京パラリンピックの頃はほんの一握りだったプロ選手や、企業とアスリート雇用契約を結ぶ選手の数が、近年はぐっと増えた。2020年東京パラリンピック開催決定がきっかけだ。以前、兵庫県の職員をしながらクラブに所属し、競技を続ける永尾さんに、「プロに転身しようと思ったことは?」と尋ねたことがあるのだが、「その選択肢はなかった」と言っていた。理由を聞くと、「地道に仕事と陸上を両立してきたからこそ、”今の永尾嘉章”が作られているから」という回答だったと記憶している。

 永尾さんは、こう振り返る。「そもそも僕らの時代は、アスリート雇用自体なかったに等しい。でも、会社勤めでもフリーでも、競技に対する思いや姿勢は変わらないんですよ。言うなれば、僕にとって陸上は『ものすごく真面目な道楽だった』ってところでしょうか。それでも、得るものは同じですから」

 そして、「競技に集中できる環境を得るのは大事なこと」と前置きしたうえで、これからの陸上界を支える後輩たちに向け、こう話す。「『競技バカ』になってはいけない。自分が置かれた環境のメリットもリスクも承知のうえで、競技に取り組む覚悟を持ってほしい」

 引退したスポーツ選手が「後悔はありません」と話す場面をニュースなどで見かけるが、永尾さんは「僕は”もっとこうすればよかった”っていう後悔がいっぱいある」と笑う。「だからこそ、若い人たちに言いたい。こうだと思ったら、どんどん挑戦してほしい。一歩踏み出す勇気さえ持てば、案外、想像以上にやれたりするものです」

 今後は次世代アスリートの育成などに携わっていくという永尾さん。自身の努力で培った知識と経験を、惜しみなく未来に伝えていく。

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