東京の女には、ホテルの数だけ物語がある。

「ホテル」という優雅な別世界での、非日常的な体験。それは、時に甘く、時にほろ苦く、女の人生を彩っていく。

そんな上質な大人の空間に魅了され続けた、ひとりの女性がいた。

彼女の名は、皐月(さつき)。

これは、東京の名だたるホテルを舞台に、1人の女の人生をリアルに描いたストーリー。

埼玉出身のごく普通の女子大生だった皐月は、東京で様々な人生経験を積み、30歳の誕生日にプロポーズを受け、無事結婚式を迎えた。しかし、現実的な結婚生活に疑問を持ち始めた頃、元彼の直樹に再会してしまう。




「元彼」という、特別な男。

しかも、結婚を強く望んで破局に至った直樹は、私にとって果たせなかった夢であり、20代の象徴とも言える存在だった。

丸の内ブリックスクエアの薄暗い中庭で再会した彼を、少し目を凝らして見つめる。

数年の時を経た直樹の顔は、頬の肉が少し削げ、肌の張りが弱まっているようだ。だが、それは悪い意味でなく、大人になった男が放つ、ちょっとした色気を帯びていた。

「久しぶりだね......」

直樹は遠慮がちな視線で、でもしっかりと私の全身捉える。過去の女に媚びるような声の出し方も、今の私には耳に心地よかった。

「皐月、もし時間あったら...お茶でもできないかな?」

胸の奥から、懐かしい感情がざわざわと顔を出す。

この時が止まったような緊張感も、ふわりと浮足だつような感覚も、しばらく忘れていた。

刺激のない単調な日常を送る、自由で時間を持て余した女が、どうしてこの甘露な誘いを断ることができるだろうか。

ただ、私が夫を持つ身であることは、都合よく心の隅に追いやってしまった。


元彼との再会に、皐月の心は揺れてしまう...?


妻となった女の高慢。今の私は、昔とは違う


かつて銀行営業室であったという『Cafe1894』は、重厚感のある、クラシカルな雰囲気が漂っていた。

直樹と私は白ワインを注文し、並んで座る。遠慮と慣れ合いが入り混じった、くすぐったいような距離感が新鮮だ。

私たちは、ポツリポツリと、少しずつ近況を語り合った。

直樹は相変わらず仕事面では多忙だそうだが、今でも独身で、「婚期を逃した」とか「結婚できない」とか、うまい具合に自虐めいた口調で、私の自尊心を巧妙に刺激する。

「皐月が結婚したって聞いたときは、実はかなりショックだったよ」

直樹の調子の良さは、変わっていなかった。

一体どの口がそんなことを言えるのかと一瞬怯んだものの、既婚という立場の私にはやはり余裕というものがあり、元恋人の狡さも優雅に微笑んで受け流すことができる。

―もう、あなたに振り回されていた、昔の私とは違う。

そんな自分自身を確認すると、不思議な優越感に包まれた。

少々品のないことを言えば、弁護士という夫の社会的立場が、直樹のステータスに引けを取らないのも、私の高慢を後押ししているのだ。




「皐月は、すっかり素敵な奥さんだね。綺麗になって驚いたよ」

会話が進むうちに、二人の間の緊張や微妙な距離感は少しずつ薄れていった。

その代わりに、アルコールが回り始めた直樹の目にうっすらと鋭い光が浮かび始めたのを、私は見逃さない。

「昔も可愛かったけど、皐月、今の方がもっともっと綺麗だよ。なんか、すごい妬ける」

安っぽいセリフだとは分かっていても、直樹の言葉は、私の中の何かを一気に満たしてくれた。

私が何も答えず、視線を落として困ったように笑うと、彼はどんどん前のめりになっていく。このゲームみたいなやり取りは、単純に面白かった。

「皐月、聞いてもいい?」

「うん」

「なんで、旦那さんと別居してるの?なんで、一人でホテルなんかに泊まってるの?」

さらに一歩踏み込んできた直樹に、私はやはり何も答えず、なるべく感情を含ませないように、静かに視線だけ返した。

そもそも、彼の質問の答えなんて、私自身もよく分からなかった。


直樹の誘惑に、皐月のとった行動は...?


翌朝、私はルームサービスで朝食を頼み、怠惰な午前のひと時を過ごした。

ベッドの上で、気ままに贅沢な食事をとるのは快適だ。

この後はジムで一汗流し、スパに行って温泉やスチームサウナでデトックスしたい。

今晩、改めて直樹とゆっくり食事に行く約束をしてしまったため、どうせならコンディションを最高に整えたかったのだ。

昨晩の彼の、切羽詰まったような真剣な表情を思い出す。

目的は何であれ、異性にあんな風に切に求められるのは久しぶりのことで、胸の高鳴りの余韻が、まだ残っていた。

今夜、直樹との食事のあと、この部屋に無事帰って来れるだろうか。

そんなこと考えてはいけないと思いながらも、この非日常感は、私を誘惑してやまなかった。


衝動を抑えたのは、罪悪感でも良心でもない


指定された銀座の『鮨 竜介』に到着すると、直樹はすでに清潔感のある白木のカウンターに座っていた。

若かりし頃にやんちゃな恋に落ちた直樹と品の良い鮨屋で肩を並べているなんて、随分と大人になった気がしてしまう。




「皐月は、本当にイイ女になったね」

今日の直樹は、昨晩よりずっと饒舌で積極的だ。

彼の褒め言葉を浴びながら、芸術品のようなお鮨を味わうのは心地良かった。決して胸を張れない行動をしている自覚はあったが、食事だけなら、まだ罪にはならないだろう。

私はまんざらでもない態度をとりながら、直樹との時間に酔うことにした。

「ねぇ、なんで俺に黙って結婚なんかしたの?」

食事を終えて店の外に出ると、彼は一気に勝負に出た。もちろん、目的は重々承知だ。私だって、おおよその経験は積んでいる。

「俺は、皐月のこと、忘れてないよ」

ああ、この人も酔っている。直樹が私の手を強く掴んだとき、ただ冷静にそう思った。

このまま流されてしまって、また新しい世界を見るのも楽しいかも知れない。そんな好奇心が、ふと頭をよぎる。

「もう、直樹ったら。人妻をからかわないでよ。また、たまにはゴハンしようね」

しかし最終的に、私はやんわりと彼の手をほどいた。

衝動を押しとどめたのは、夫への罪悪感でも、倫理に反する恐さでもなく、直樹への対抗心だった。

ここで彼の想い通りになったら“負け”だ。私は自分でも驚くほどの執念で、27歳のときの彼の裏切りへの復讐を果たしたのだ。

それはほとんど、本能的行動だった。

「そっか...、分かった。また連絡する」

直樹はご丁寧に丸の内まで私を送ってくれ、かろうじて紳士な態度を見せていたが、きっともう二度とこんな風に会うことはないだろうことは容易に想像がついた。




ホテルの部屋に戻ると、どっと疲れが溢れた。

バスタブにお湯を入れ、洗面台で普段より丁寧に施されたメイクを落とす。

惨めに終わった昔の恋に報いてやったはずなのに、胸の中は苦々しい思いが広がり、後味はすこぶる悪かった。一体私は、何がしたかったのだろう。

すると、静かな部屋に、スマホの振動音が小さく響いた。

「皐月?ホテルステイはどう?楽しんでる?」

突拍子もなく明るい声でそう言ったのは、夫の春斗だった。

彼は自分の妻が意味不明な戦いに挑んでいたことなど知る由もなく、ボストンの天気や、ロブスターが安くて美味しいことなどを平和に語り始めた。

彼の柔らかな声は、私を徐々に現実へと引き戻していったが、不思議ともう抵抗は感じない。

「ねぇ、そっちにも、いいホテルはある?」

「もちろん、たくさんあるよ!フォーシーズンズもあるし、皐月の好きそうなお洒落なブティックホテルも多いよ」

早めに休みをとって、春斗に会いに行こう。そして、夫婦の思い出をたくさん作ろう。

私はもう、昔の不安定な女じゃない。一人前の大人の女で、理解ある優しい夫と、堅実に幸せな人生を歩むのだ。

心の中で、そっと決意を固めた。

―Fin

<撮影協力>
フォーシーズンズホテル丸の内 東京
公式HP:http://www.fourseasons.com/jp/tokyo/