学生の窓口編集部

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著名人の方々に大学在学中のエピソードを伺うとともに、今の現役大学生に熱いエールを送ってもらおうという本連載。
今回のゲストはマンガ家のタナカカツキさん。タナカカツキさんといえば、爆発的ヒットとなったカプセルトイ『コップのフチ子さん』(奇譚クラブ)の原案・企画・デザインで有名ですね。マンガ家、デザイナーとして多くの作品を生み出す一方で、水草レイアウトの世界ランカーとして知られる「水中園芸家」でもあります。そんな多方面で活躍しているタナカカツキさんはどんな学生生活を送ったのでしょうか。今回は、タナカカツキさんに自身の大学時代についてお話を伺いました。


マンガを描くために美術系の大学へ?!

――タナカさんは京都精華大学に進学されています。なぜ京都精華大学を選んだのですか?

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まず「マンガ家になりたい」という希望があったんです。で、進路相談で「マンガ家になりたいんですけど……」と先生に相談していました。たまたま担任の先生が美術の先生で、すすめてもらったのがきっかけですね。

――その先生のアドバイスはどのようなものだったんですか?

「美術系の大学は時間はたっぷり取れるで。その時間でマンガを描いたらええやん。他の一般の大学やったら単位取るのが大変やろ。あんたに合うてるで」と言われましたね。京都精華大学はそのときまで名前も知りませんでした。

――一般の大学は考慮されなかったのですか?

そもそも進学に興味がなかったので、一般の大学には最初から行く気はなかったんですよ。といって浪人するにも何か目標がいるじゃないですか(笑)。マンガを描くための時間をつくるために進学する、みたいな感じでしたねえ。親にも「それでええ」って言ってもらえましたから、京都精華大学デザイン学部しか受験していないんです。

大学は刺激の宝庫だった! 「アート」「音楽」「演劇」

――実際に18歳でマンガ家デビューされていますから目的はすぐ達成したわけですね。

そうですね。大学1年の冬にデビューしていました。高校生のときは、授業とか球技大会とかで忙しいじゃないですか。大学に入って1年間マンガを描く時間がとれたわけです。

※タナカカツキさんさんは1985年『ミート・アゲイン』で小学館新人漫画賞において佳作入選。この後『スピリッツ』(小学館)でいくつかの短編を発表されます。

大学は刺激の宝庫でしたね。図書館にはそれまで高価で手に取れなかった本、画集なんかがぎっしりあるわけですよ。それに周りには仲間がいますしね。大学に入るまでは興味がそれほどなかったんですが、「アートってオモロイなあ〜」となりましたね。

僕が大学生のころというのはバブルで、西武セゾングループがカルチャーを引率してた時代です。日比野克彦さんのような若手アーティストの活躍が注目されていたりですね。演劇でも野田秀樹さんの『夢の遊民社』、鴻上尚史さんの『第三舞台』が有名になって盛り上がっていましたし。大学の外でも刺激がたくさんあった時代でした。

――タナカさん自身もそういった世の中に影響を受けましたか?

ご他聞に漏れず影響は受けましたし、「デザイン、芸術って面白れーっ!」ってなりました。そこからは大学の授業も楽しかったですねえ。

――大学時代に一番興味があったことは何でしたか?

「新人類」なんて言葉が出た時代でしたから、「パルコ文化」といいますか、西武セゾングループがやっていた展覧会、『日本グラフィック展』というのがあるんですが、これは相当面白かったですね。

※日本グラフィック展(パルコ主催)はそもそも榎本了壱さん(アートディレクター)が仕掛けた公募展に始まります。1983年の第3回大会では日比野克彦さんが大賞に選ばれ、翌年の第4回大会では応募者が手に自作を持って長蛇の列をなすほど、若きアーティストたちから支持される展示会となりました。

あとは音楽、演劇ですかね。「イカ天」ブームがあって、バンドがたくさん出てきた時代でしたし。演劇でも野田さんや鴻上さん(上記)が活躍されていましたから。

※「イカ天」は「三宅裕司のいかすバンド天国」の略称で、TBS系で放送された番組『平成名物TV』の中のバンドオーディションコーナーのこと。多くのアマチュアバンドがこのコーナーに登場し、『たま』『BEGIN』など多数のバンドがメジャーデビューを果たした。

ですから、グラフィック、お芝居、演劇、そういったものが自分にストレートに入ってきましたね。その一方で、困ったことにマンガに興味がなくなっちゃって。デビューしたのはいいんですけど、自分のマンガが掲載されている見本誌が送られてくるんですが、読みたくなくて。関心がなくなっちゃったんですね。

――ちなみに掲載誌は何でしたか?

そのころは『スピリッツ』ですね。娯楽志向の商業誌でしたから、関心のないマンガしか載ってないわけですよ。(マンガ家として)どう戦っていいかも分からない。自分の居場所はないなと思ってしまいましたね。

小学館でデビューしたんですが、これじゃ駄目だと思って『モーニング』に作品応募したりしていました。モーニングという雑誌には、その当時の若いアーティストたちの匂いがちょっとあったんですね。実験的な作品を掲載していたりとか。応募規定には「プロでもOK」となっていましたしね。(自作の)掲載誌を変えようとしました。

※タナカカツキさんさんは大学3年生のときに講談社で再デビューすることとなり、名作『逆光の頃』などの作品を描きます。『逆光の頃』は実写映画化され、2017年7月8日に公開となります。貴重なカラー原稿などを収録した『逆光の頃 完全版』が現在講談社から発売中。

――マンガ家をやっているということを周りには言っていたのですか?

隠していましたね。仲のいい数人には言ってましたが。1・2年生のときはペンネームでしたしバレなかったと思いますよ。さすがに3年生になったころには本名で再デビューしましたから周りも知っていたみたいですけど。

――どんな学生だったんでしょうか?

ヘンな話ですけど……僕、めっちゃお金あったんですよ。

――えっ!?

そのころ、週刊『モーニング』誌で連載していますしね。その分のギャラが入るわけですから。お金があるんですけど、特に使い道はなくて。ただ、お金があるということって自分で証明したくなるでしょ? 「オレはお金を持っているんだ」って。

だからファッションには全然興味はなかったんですが、無駄に同じ皮ジャンを2枚買う、とか意味のないことをしていましたね。で、その皮ジャンは人にあげちゃって、「ああ、やっぱりオレはお金あるんだ」って納得する。

あと、自分がマンガ家をやっていることを知っている仲間には言ってたんですよ「めっちゃ金あるけど、どうしよう?」って。「それはオモロイやん。共同のクルマを買おう。オレ免許あるからどこでも連れてったるで」と言われまして。

――買ったんですか?

買いましてね。クルマの名前を「自由号」と名付けて、カギは僕が持ってるんですけど、用事があるときには「おぅ、自由号借りに来たでー」なんて友達が来る。でも役に立ちましたよ。大きな画材とかでっかいカンバスを運んだりね。

――大学時代に思ったこと・感じたことで現在にまで生きているものはありますか?

感じたこと……ではないかもしれませんが、大学に行ってよかったなぁ、と思うのは「情報がすごく手に入った」ということですね。何万円もする画集を独り占めできましたし、AVライブラリーで貴重な映像を見られたり、レコードが録音し放題だったりね。

――なるほど。

すごくありがたかったのは大学にFAXが導入されて、それが使い放題だったことです。京都にいながら東京の編集者とやりとりできる、というのはすごい強みになりました。タダで使えたんですよね。

当時はネットがありませんでしたから、遠方にいると作品は封書でやりとりするしかないんですけど、FAXがあるおかげで、ひょっとしたら東京に住んでいる若いマンガ家よりも僕の方が連絡を密に取れたかもしれません。原稿の直しも速くできますし。

――それは、先生の許可は得ていたのですか(笑)?

得ていましたよ(笑)。先生は使い方がわからなかったんですよね。最新の機器すぎて。僕は説明書読んで、使い方を覚えて。先生からは「自由に使っていい」と言われたんですよね。本当にラッキーでした。

――京都精華大学に入っていいことずくめですね。

そうですね(笑)。バンド活動をやって大きな音を出してもいいですし、空いていれば教室をいつ使ってもいいですし、なんなら泊まれるし。エアコンもあるし、電話もかけていいし。空間も設備も使いたい放題使えるっていう……。もちろん当時の話ですよ。今はちゃんと許可取らないと駄目だと思いますけれども。

――当時のタナカさんは現在のタナカさんを想像していましたか?

うーん、(当時は)悩んでいたと思いますね。マンガ家としてデビューはしたんだけれども、(上記のとおり)マンガには興味がなくなっていたわけです。もうマンガを読んでいなかったですから。でも「マンガなるもの」には興味は残っていたんです。

面白いものは好きだし、新しい表現は好きだし。自分にとってマンガはそういうものだったんですよ、子供のころから。「マンガなるもの」は面白くて、最新の表現だったんです。「その時代」の表現でしたし、それこそ実験もありましたし。今みたいな「マンガ市場」じゃなかったですからね。

描いている人たちが思いっきりふざけて、楽しんで描いたものを体験してきたので、「そういった、コマ割りではない『マンガなるもの』をつくる人になりたい、そういった仕事をしたい」と思っていましたからね。

――マンガではなく「マンガなるもの」の方が大事だったのですね。

だから「マンガ雑誌じゃないのかな?」とは思っていましたけどね。でもあんまり具体的には考えていなかったです。毎日が刺激的でしたからね。

現役大学生にアドバイス 「魔法を使え!」



――現在大学生のみなさんにアドバイスをお願いいたします。

僕は小学生のころから、うっすらとマンガ家になりたいと思っていたんですけど、その当時から「売れすぎて忙しくなったらどうしよう」と心配していたんですよね。売れっ子のマンガ家って、寝るヒマもなくマンガを描いているみたいなイメージがあるじゃないですか。

「寝るヒマもないのは嫌だなあ」と思って、まあそんな心配よりも先に売れろ! って話なんですけども、「締め切りに縛られないマンガ家になりたい」と思ったんですね。その「思ったこと」は「現在叶った」と思っているんですよ。

ヒマですし、別に締め切りにも追われていませんしね。それは、自分の思ったことを実現するために、自分に言い聞かせたというか、きっと将来はマンガ家になるんやろなといった態度でその日を過ごした。そのためにその日できることはやっておいた、機嫌よく準備はしていたと思います。どうせ自分の思ったとおりになるんやろうなと、自分に魔法をかけたんですよね。そして、その魔法はちゃんと自分に効きました。

――なるほど。

魔法だと思えばいいんですよ。みんなジャッジするでしょう? 「これは実現できるんだろうか?」とか「この仕事は自分に向いているんだろうか」とか。そしてどんどん萎縮するでしょう? 萎縮するとだいたい自分を小さく見積もることになるんですよ。

自分を小さく見積もらなくていいので、どんな魔法に自分がかかりたいかだけ考えて、楽楽観的に行動してればいいんです。時間のかかる魔法使いと思って。でもそれは結局効くんですよ。「魔法を使え!」と思います。

――ありがとうございました。

タナカカツキさんは、大学時代に吸収した素晴らしい刺激の数々を素地にして、数々の作品を生み出し、多くの人を魅了しています。大学時代が本当に楽しかったそうですから、その点はとてもうらやましいですね。現在大学生のみなさんは「魔法を使って」、いつか自分の願いどおりの自分になってください。

(プロフィール)
たなか・かつき

1966年大阪生まれ。京都精華大学美術学部(現芸術学部)ビジュアルデザイン学科卒。在学中の1985年にマンガ家デビュー。著書には『オッス!トン子ちゃん』『サ道』、天久聖一との共著「バカドリル」などがある。カプセルトイ『コップのフチ子』の企画・原案・デザイン。

⇒タナカカツキさんの公式サイト『カエルカフェ』
http://www.kaerucafe.com/
⇒『逆光の頃 完全版』
https://goo.gl/4heFSe
⇒映画『逆光の頃』公式サイト
http://gyakko.com/

(高橋モータース@dcp)