自身にとって香港を表す言葉「捉緊(つかむの意)」を掲げる学生活動家のチョウ・ホイさん。市内の公園で(2017年5月9日撮影)。(c)AFP=時事/AFPBB News

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【AFP=時事】英国から中国に返還されて20年という節目を迎える香港(Hong Kong)では、年齢、経済的地位、政治信条の違いによって、人々が抱く感情も、怒り、悲観、誇らしさ、祝賀気分とさまざまだ。

 高度な自治が保障されている香港では今なお、中国本土にはない自由があるが、ここ数年は社会不安も増加している。なかでも、中国政府の介入との見方もある政治的な動きに対しては、民主改革を求めるデモや独立運動もみられるようになってきた。また若者の間では、不動産価格の高騰や低賃金による不満もくすぶっている。

 それでもなお、香港はチャンスの街であり、中国の一部である限り、安定と安全がもたらされるはずとの考えを持つ人も少なくない。

 1997年7月1日に中国に返還されてから20年がたつ香港で、3人の地元民が夢と希望、将来に対する不安を語った。

■雨傘運動の最年少逮捕者、闘う20歳の学生活動家

 地元である太子(Prince Edward)エリアの公園で話をしてくれたのは、1997年生まれのチョウ・ホイ(Chau Ho-oi)さん(20)。父親は音楽教師、母親は会社員。幼い頃の夢は警察官になることだった。

 だがチョウさんは3年前、香港選挙制度の民主化を求める大規模デモ「雨傘運動(Umbrella Movement)」の参加者の中で最年少の逮捕者となった。

「警察官になるのは正しいことだと思っていた。でも、正義のために力を尽くす方法は他にもあると今では思っている」とチョウさんは語る。

 現在は、中国政府に対抗する若い活動家らの一人で、香港の雨傘運動の学生リーダーだった黄之鋒(ジョシュア・ウォン、Joshua Wong)氏が共同で立ち上げた政党「香港衆志(デモシスト、Demosisto)」の活動にも関わっている。

 中国に対する愛国教育の導入に抗議する学生デモが行われた2012年、チョウさんは初めて、若者にも物事を変える力があると思うようになったという。

 以降、学生運動の組織に飛び込み、2014年のデモにも参加した。しかし「政府は、若者を敵対勢力と見なしている」と語り、当局は若者の関心事など眼中にないと続けた。

 同居している両親は、自分なりの生き方を見つけることを認めてくれているという。友人の中には、政治に無関心な人もいれば、民主主義が進展しないことにいら立つ人もいる。そんなチョウさんの望みは、活動家として闘い続けることだ。

「自分には、今の社会を変える力があると思っている。私たちはまだ絶望する場所には来ていない。希望は自分たちで生み出さないといけない」

■将来に不安を抱く40歳投資家

 香港の名高い港を見下ろす超高層ビルのオフィスで働く投資家のセドリック・コー(Cedric Ko)さん(40)は、「この街は、他のどこよりも生活に活気がある。社会の競争や商業的な側面にとっては非常に大きな利点だ」と述べ、エネルギッシュなこの街のにぎわいを称賛する。

 だが2児の父親でもあるコーさんが将来への不安について語り始めると、その口調はトーンダウンした。香港でのびのび育ち、1997年当時はカナダに留学していたコーさんは、若い頃に比べるとせちがらい世の中になったと話す。

「私には、物事を調べて自分で考える時間がたっぷりあった。でも今の子どもたちは違う」「今の子どもたち、特に従順な子どもたちは、政府が常に正しいと信じている」とため息交じりに語った。

 子どもたちはまだ8歳と生後3か月だが、コーさんは2人を違う文化や生活様式を学ばせるため海外留学させることを検討している。他国への移住を考えている香港住民の数は近年増えているが、コーさんもそのうちの一人だ。

 政治および社会的問題の解決には半信半疑だとしながら、「香港の問題はこれからも残ると思う。たとえ今以上に悪くはならないとしても」と話した。

■民主化運動に反対する72歳の中国伝統薬専門店店主

 旺角(Mong Kok)の繁華街で伝統薬の専門店を営むタン・キンファ(Tan Kin Hua)さん(72)は、より良い生活を求めて中国本土南部の村を離れ、香港へとやって来た。軟こうや薬草がきちんと並べられているこの店はタンさんの夢の結晶だ。

「誰もが故郷を飛び出し、大きな街で身を立てる機会を求めていた」と使い古されたそろばんを片手にタンさんは言う。

 香港に住む同世代の多くは、本土の極貧地域出身だ。タンさん同様、政治的な粛清が大規模に行われた文化大革命(Cultural Revolution)という激動の時代に出口を模索した。

 タンさんは、「あの頃は(今ほど)自由じゃなかった」と一言述べただけで、当時のことについてはほぼ触れなかった。

 1972年に列車で香港にたどり着き、しばらくは工場で働いた。当時の日給はわずか8香港ドルだった。香港で使われる広東語を学んだ後、本土で学んでいたという中国伝統薬に再び関わるようになり、1997年になる頃には現在の薬局を開業した。

 タンさんは、3年前の香港の民主化要求デモを「迷惑」だと非難する。このデモの影響で、香港では行政の一部などの機能がまひした。独立運動にも反対し、香港は中国の一部であり、居住者の生活を改善するために皆で力を合わせるべきだと主張した。

 いつかは生活も楽になるはずと信じて疑わないタンさん。「中国政府がこの街を支えてくれているんだ。今に良くなる」と語気を強めた。
【翻訳編集】AFPBB News