国家戦略というのは、素人が思いつきで適当なことを言えば、大概のケースで破壊的なことが起こるものです。

 地味なニュースですが6月30日、文部科学省から指定国立大学法人として、東北大学、東京大学と京都大学の3大学を認定するとの発表がありました。

 国の「第3期中期目標」にしたがって、高等学術の教育・研究を推進するための体制作りとして、重要な意味を持つものと言えるでしょう。

 このところ「国家戦略」といった言葉がいろいろ取り沙汰されますが、それが本当に奏功するとはどのような状態であるのか、考えてみたいと思うのです。

 18年前、私が大学に着任した最初の年、公務として「知識構造化」というプロジェクトに参加し、6年ほど仕事をした時期がありました。

 21世紀初頭、その当時でもすでに先端研究は日々莫大なアウトプットを出し、専門家1人でとても1分野をカバーすることができない。まして「文理融合」などといった融合的な領域は、闇雲に手を広げても有為な成果は期待しにくい。

 「選択と集中」がまさに必要になるわけですが、それが恣意的な独断ではなく、幾人かのエキスパートの有効な協力のもと、しっかりした成果を出すことが重要になります。

 自分固有の持分をしっかり全うするとともに、マネージング・プロフェッサー業も非常に大切です。これは「雑務」と言い換えることもできますが、しっかり専門を持ったスペシャリストが、ゼネラルな業務にも責任を持って、個別のミッションに着実な成果を出していくことが求められる。

 そういうものだと理解して、私自身もいくつかの事案に参加してきました。

 今般の「指定国立大学法人」としての東大のミッションについて、先のリンクではこのように記述しています。

 「・・・我が国のシンクタンクとしての機能のみならず世界が抱える課題に果敢に挑戦する使命があり、その取組が進められることが期待される。また、その使命と役割を国内外に積極的に発信し、社会的理解を得ていくことが期待される・・・」

 個別の研究・教育・国際展開などについて、すでによく努力し成果を出しているが、それを「世界が抱える課題」に果敢に挑戦する「シンクタンク機能」の取り組みが、大学に期待される・・・。

 すでに個人のキャパシティを超える質・量の学術情報が氾濫する中で、こうしたミッションに、どのように取り組んでいくことができるのか?

 以下では、一個人教員の観点から、具体例を挙げて検討してみたいと思います。

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SEGsと「メキシコの壁」(Sustainable Development)

 すでにこの連載で、国連が2016年初から掲げているSDGsについて触れました。

 この中で「完全雇用の実現」とか「国際パートナーシップの推進」といった目標が「国連2030年アジェンダ」として掲げられるわけですが、仮にそれらが互いに反駁し合うものであって、かつお互いがお互い、そのような事実を知らぬまま、力を相殺し合っていたら・・・。

 それは大いにあり得ることです。問題解決の知恵を使うべきポイントになるでしょう。2000〜2006年の「知識構造化」の時点でも、人類が手にする高度専門学術知は十分膨大、と言うより詳細すぎて、アウトラインが見えにくくなっていた。

 そこで、情報の「見える化」を進めて、とても全貌を見渡せない莫大な情報群、例えばインターネットに存在するHP全体の集合といったようなものの中から、必要な情報を抽出する・・・。

 大げさなようですが、グーグルやヤフーの検索エンジン、ここ10年来普及したSNSなど、みなそのような枠組みとして発達し、社会に定着したものにほかなりません。

 これらの技術が進み、さらに高速化したAIの計算資源も活用して、最適解を求めていこう、あるいは、従来はデータとして取り扱われることがなかった情報もIoTの普及で積極的にシステムに取り込んで、新産業と市場を創出、有為な未来を切り開いていこう・・・。

 そういうビジョンを描きながら、実際にはローカルな視野は限られ、複数のプロジェクトが相殺し合ったりするなら、大変にもったいないことです。

 例えば、米国では、メキシコからの不法移民を封じるために巨大な壁を作る「公約」で当選した人が、そのような「大統領令」に署名していますが、建設費はメキシコに出費させるなどとあり得ない話で、当然拒否されています。

 すると今度はその壁に太陽光パネルを貼りつけるという「構想」が、たぶんアドリブで述べられたらしい報道がありました。

 ローマ帝国末期の軍人皇帝時代ではありませんが、とてもではないけれどまともな国策と言える代物ではない。

 逆に、どんなにシンプルでもよい、最低限のロジックで「複数の政策が互いに殺し合わない国家戦略」をまじめに考えるべきと思います。

 本来は大事な案件名目で積み上げたはずの、大事な国家予算を空費し、公債残高だけが重なって実体経済はむしろ縮小、白色矮星型末期経済の病状を進めるのは愚かです。

 以下ではSDGxというプロジェクトから「メキシコの壁」を扱うモデルを簡略化して、漫然と考えると気がつかない、政策同士の矛盾について考えてみたいと思います。

 ポール・クルーグマンのコラムを念頭に、ごく簡単な式を併用して検討してみます。もとより私はマネージング・プロフェッサー業務の担当者で、多くのエキスパートのご協力があって成立しているものですが、本稿に瑕疵があれば全面的に筆者の責であることをあらかじめ記しておきます。

「メキシコの壁」はむしろ米国の足を引っ張る

 隣接する2つの地域の間に経済の格差があれば、また、人の出入りが可能であるなら、不況側から活況を呈する側に労働人口の移動があって自然です。

 日本国内で考えても、農閑期の地方から都市部に出稼ぎがあるなど、当たり前のことでしょう。

 そこでメキシコと米国、境を接する2つの国について、ごく簡単なモデルで移民労働を考えてみましょう。問題の設定は慶応義塾大学経済学部の藤田康範教授によるものですが、以下の簡略にした計算は私が行っているもので、瑕疵があれば全責は私にあります。

 以下、米墨2国間の経済だけを考えます。そういう単純な数理モデルによる考察でも、直感的に考えていては出てこない、有為な結論が多く導けるのが、こうした戦略数理のメリットです。

 米国での賃金をW、メキシコでの賃金をwと考えましょう。W>wであるとするなら、メキシコから米国に移って仕事したいと思う人が出てきて当然でしょう。

 米国に存在する有効需要(仮想的なモノの需要が何個あるかの平均尺度、と思ってください)がD個、製品を1個作るのに必要な平均雇用人数(労働投入係数)をa人/個とすると、米国での雇用総数をモデル的にa(人/個)×D個の有効需要から米国にaD人の雇用があると考えられます。

 米国の人口をN人、米国の就労率をQ、メキシコからの移民数をnとすると、移民が米国で職にありつける割合qは 

 となるでしょう。この割合が米墨間の賃金格差程度の水準に定まればバランスが取れますから 

 となる状況で両国間の移民バランスが成立すると考えるなら、移民の実数nは 

 として求まり、また米国の就労率Qは 

 となりますから、移民数nが増えるほど米国の就労率Qは下がることになり、「とんでもない、壁を作れ」、「塀(へい)ならぬヘイトだ」、ということになってしまいかねない。

 実に直線的な考え方(実際「線形」なモデルになっています)と言えるでしょう。素人が容易に陥りかねない、でも選挙では一般受けしそうな考え方です。そういう浅慮で選挙には勝てても、国家戦略の舵取りはできません。

成長戦略から考える移民

 そこでこれをイノベーションの問題に改めるべく「オークンの経験則」の考え方を導入してみましょう。

 

 オークンの経験則とは、一国の生産量つまりGDPと失業の間に負の相関があることを経験的に見出した、アーサー・オークンによる経済経験則で、Y ̅を完全雇用が実現した状態での潜在GDP、Yを現実の、雇用が理想状態にないGDPの値、uを実際の失業率、u ̅を自然失業率、すなわち仕事に就くことができない高齢者その他の人口比率とすると

 という関係にあるとするものです(Barnankeらによる)。

 cはパラメーター、ここでは比例定数で「GDP失業相関係数」などと呼ばれるものです。Y ̅とは本来米国が持っているフルパワーのGDPですから Y/Y ̅ = r とすれはこれは現時点で達成できているGDP割合、1-r =RはGDPの期待成長率ということになります。ここから

 となり、先ほどの式、ならびにまたメキシコ移民数nをメキシコの人口Nmに移民率δをかけたもので表し、式を整理すれば、米国のGDP期待成長率Rを

 と書くことができます。ただし

 として米国で本来働ける正味の余剰就労可能人口を表しました。右辺を見ると、既に就労している雇用水準aDや、高齢者など労働戦力にならないNu ̅がGDPの期待成長率に対してマイナスに働くのに対して、移民労働力が正味の戦力になる事が分かります。ここから、移民率δは

 と表現できます。ここで分子の第2項、移民受け入れ幅を

 としました。隣接する2国の間に経済格差があれば、εが正である限り人の流動がある方が自然でしょう。このεの値がマイナスにならない限り、移民は戦力になります。εの中身を見ると、Nもνも米国の人口、労働人口で急激には変化しませんが

1 Rを大きく伸ばすこと
2 cを小さく保つこと

 は、どちらも政権の努力で達成可能な課題です。元来が「移民の国」であった米国の魅力は、圧倒的な ε つまり移民受け入れ幅の大きさにありました。

 GDPやその期待成長率を一定であるとか、頭打ちと考えて守りに回ると、話がおかしくなります。あくまで実体経済の成長を大切に考えるべきでしょう。

 翻って、2017年に入ってからの米国共和党政権の政策は軒並み、イノベーションの推進に直結せず(むしろ逆行し)、必ずしも雇用の促進につながっておらず、後先の効果なしに移民の排除を述べ立てて、まさに複数の政策が競合して、国の経済を縮小させる方向に向いている。

 そのように指摘して外れないかと思います。

 格差があるのに無理に不自然な壁など作ると、かえって何らかの影響を米国経済に与えてしまうのです。

 上の議論は実際には、藤田教授の経済の設定を私が物理の流儀で考え、さらに(学振「ひらめきときめきサイエンス」などで普段工夫しているように)中学高校生にも分かる形で記したものですが、難しい算数を使っても結論はあまり変わりません。

 日本でも都市部ではコンビニエンスストアのレジ打ちなどに途上国からの出稼ぎ労働者がごく当たり前になりました。

 先進国と途上国がかかわる経済を考えるとき、人材の自然な流動を前提とした方が、保護的、孤立的な政策を採るより全体の調和と成長にとってプラスになることがある・・・。

 これはたとえ話ではなく、少なくともこの程度の考察は日常的に黒板で議論しながら政策というのは打っていくものです。

 人も知る数理の使い手、ベン・バーナンキ氏がFRB議長として「ヘリコプターで札束を撒け」という言葉から「ヘリコプター・ベン」などと渾名された政策も、決して徒手してドルだけ刷っていたわけではない。

 ベンの親友、クルーグマン同様、随所で簡潔な論理骨格を素描し、必要があれば計算機資源を導入して精緻化、知恵ある政策展開を継続した経過をここで思い出しておきたいと思います。

筆者:伊東 乾