夜更けの赤坂で、男はいつも考える。

大切なものができると、なぜこんなに怖くなるのだろう。

僕はいつも同じところで立ち止まり、苦しみ、前を向こうとして、またつまずく。

41歳、テレビ局のプロデューサーである井上は、ひとりの女と出会う。

ある夜、井上が女友達の静香に介抱されている姿を、ハナに見られてしまう。





「珍しいわね、あなたが酔っぱらうなんて」

マンションに着くと、静香は冷蔵庫からミネラルウォターを出してくれた。

日曜の夜、『ノマドグリル・ラウンジ』で飲んでいたら、井上はすっかり酔っぱらってしまった。大の大人がこんな風になるなんて、全く情けない。

ここまで酔いが回るのは、昔からの友人である静香と一緒だからだろう。

「じゃあ、私帰るわね」

静香は鞄を持ち、去ろうとした。

「え?もう帰るの?」

井上は思わず、そう聞いてしまった。

今さら下心がある訳ではないのだが、酔いが醒めて行くうちに、何とも心もとない気持ちになってしまったのだ。

すると静香は井上の手をとり、こう囁いた。

「マンションの下で、私たちをずっと見ている女の子がいたわ」
「……え?」
「あなたの知り合いかしら」

彼女はそれだけ言ってにっこり微笑み、井上の部屋から颯爽と出て行った。

静香のその言葉を聞き、井上は呆然と立ちすくんだ。

―ハナが、来てたのか?


慌ててハナに連絡する井上。2人は会えるのか?


静香が家から出て行き、井上はそれまでずっと見ていなかったスマートフォンを慌てて確認した。

着信が3件、LINEも2通ほど届いていた。

―今から井上さんの家、行ってもいい?

1通目のメッセージは、1時間ほど前に来ていた。そして2通目のメッセージに、井上はひどく心を痛めた。

―井上さんに、どうしても会いたくなっちゃったの。

これまで井上がどんなに好意を口にしても、ハナは決してこんな甘えたことを言ってこなかった。そのメッセージを見て、井上はいても立ってもいられなくなり、家を出た。マンションの辺りを見回し、ハナがいつも立ち寄る赤坂氷川公園にも足を運んだ。

しかしもちろん、ハナの姿は見当たらない。

何度も連絡したが、一向につながらなかった。



―あーあ。やっちゃった……。

井上さんが女と歩いているのを見て以来、ハナの心は荒れていた。

今日は高校時代の同級生・拓也から連絡があって、セルリアンタワー40階の『ベロビスト』で飲んでいる。気づけば、時刻は24時を回っていた。




男からの誘いは最近全て無視していたのに、今日はつい飲みに来てしまった。

高校時代のバカ話をするのは楽しいし、拓也はお調子者なのでふんだんにハナを褒めてくれる。

拓也と過ごす時間は、非日常でフワフワとしていて、それはそれで楽しいのだ。

しかし会話が途切れたふとした瞬間に、ハナは思う。

―私、何やってるんだろう?

そうすると、たちまちここは「自分の居場所」ではないと思い、途端に帰りたくなった。

―かえろ。

このまま飲み続けても、拓也はハナを口説いてくるばかりで、もしかしたら「ハナの家に行きたい」などと言ってくるかもしれない。それをあしらうのも、面倒だった。

「私、もう帰るね」

残っていたカクテルを一口で飲み干し、ハナは席を立つ。

「……えっ!?いきなりどうしたの?」

慌ててそう言う拓也を残し、店を出てタクシーを拾った。

井上に連絡するのも気が引けて、かと言って渉君と一緒にいるのも気が重い。気を紛らわそうと、ハナの手帳は1週間先まで、他の男たちとのデートの予定で埋められていた。


一方の井上は、ある決意をする。




「……お父さんの心配はいいから。それより、あなたいい人はいないの?」

母親の智子からの言葉に、井上は途端に言葉をつまらせた。

父親の様子が心配だったので、井上は最近、3日に1回のペースで実家に連絡している。




「まぁ、その話はいいじゃないか」

35歳で離婚してから独り身になった息子に「結婚」とうるさく言ってこなくなった両親ではあるが、やはりこうして父親が塞ぎこんでいると母親も心配になるのだろう。

井上が離婚したのは、結婚して専業主婦になった妻がどんどん塞ぎこんでしまったからだ。

元々ファッション誌の編集をしていた女だったが、結婚してぱたりと仕事を辞めてしまった。テレビ局員というのはどうしても不規則な仕事なので、家にいてくれるならそれはありがたいことだと思った。

結婚した当初、彼女は専業主婦としての生活を楽しそうに送っていたが、次第にその生活に物足りなさを感じたようだ。子どもにも恵まれずストレスを抱えていった彼女は、次第に井上の一挙一動に口を挟むようになってきた。

最終的には、彼女から「離婚したい」と切り出された。

元々、熱烈な恋愛結婚だったわけではない。「30過ぎたし、そろそろ身を固めないと」と、流れに身を任せた結婚だったのだ。だからもう結婚は懲り懲りだと思っていた。

しかしハナと出会ってから、改めて「結婚したい」と思うようになった。

ハナの存在で、慣れっこになっていた“孤独”というものを思い出した。彼女が自分の手から離れていくと分かると、たちまち不安になるのだ。

母親からの電話を切り、深く息を吸い込んだ。

―マンションの下で、私たちをずっと見ている女の子がいたわ。

ハナは静香に介抱されている自分の姿を見て、どう思ったのだろう。

ハナには、恋人がいるかもしれない。
自分のことが好きかは、分からない。

それでも井上は、ハナをどうにか“モノにしたい”という自分の気持ちに、もう嘘はつきたくなかった。

失敗の経験が増える分、大人は傷つくことを恐れている。だからよほどの決定打がないと、重い腰は上がらないのだ。

スマートフォンを取り出し、「森山ハナ」に電話をかける。

10回コールしても、ハナは出ない。

それでも井上はスマートフォンをずっと耳に当てて、永遠に出ないかもしれない女のことを、ひたすら待ち続けた。

▶NEXT:7月7日 金曜更新予定
井上の想いは、届くのか!?