子を産み、子を育て、家を守る。

昔からあるべき女性の姿とされてきた、“良妻賢母”。

しかしその価値観は、現代においてはもう古い。

結婚して子どもを産んでも、男性と同等に働く女性が増えた今こそ、良妻賢母の定義を見直す時だ。

家庭も、仕事も、子育ても、完璧を目指すことで苦しむ東京マザーたちが模索する、“現代の良妻賢母”とは、果たしてどんな姿だろうか。

レコード会社で働く佳乃は出産後、時短勤務で復職したが家事と仕事で追いつめられ、ついに離婚を切り出してしまった。紀之は、それを仲の良い同期に相談し解決策を模索していた。




離婚を切りだすことになるなんて、佳乃自信が一番驚いていた。

紀之がゆり子と2人で食事に行ったことを知らされた時のショックは、思っている以上に大きかった。

他の女性であれば問題なかった。

同僚の女性と2人きりでも、深夜に帰ってこようとも、紀之のことは信頼しているのだから、少しくらいは怒るだろうが、すぐに許していたと思う。

だが、相手がゆり子であれば話は別だ。

夫が昔、好きだった女性。

その存在はやはり特別で、気にせずにはいられない。

仕事は続けているのだから、離婚しても生活はできる。広島から母を呼び寄せ、一緒に住んであかりの面倒を見てもらえば、なんとかなるだろう。

現実逃避と言われれば、それまでかもしれないが、それでもそんなことを考えているだけで少しだけ気持ちが楽になった。


この後、夫婦の話し合いが始まる。その意外な内容とは?


金曜の夜、いつものように紀之に手伝ってもらいながらあかりをお風呂に入れて、寝かしつけた。

あかりの寝息をしばらく聞いた後、寝室を出て重い足取りでリビングへ向かう。

夕飯を食べている時に「後で話があるから、ちょっと時間ちょうだい」と紀之から言われていたのだ。

無言で頷いたもののやはり気が重い。あかりを寝かしつけながら自分も寝てしまったということにしようかとも考えたが、嘘をつく自分が嫌でリビングに入った。

紀之はコーヒーを飲みながら、テレビを見ていた。




そっと近づきながら、何を言われるのだろうと警戒してしまう自分が、なんだか虚しく思えた。

「あ、佳乃。忙しいとこごめんな。あかりはぐっすり?実は、今日は提案があるんだ」

紀之の妙に明るい態度に、余計に警戒心を強めた。

「佳乃が復職してから、俺もそれなりに頑張ってるつもりだったんだけど、至らないところがあったり、佳乃を怒らせるようなことをして、本っ当にごめん!」

まるで仕事のミスを謝る時のように、深々と頭を下げられ面食らう。

紀之からこんな風に頭を下げられたことなんて、考えてみれば一度もない。

そもそも、夫婦間でこんなに礼儀正しく謝ることなんて、世の中でもそう多くはないだろう。

紀之の形の良い頭を見ながら、妙に冷静にそんなことを考えてしまった。

「ちょっとやめてよ、頭上げて。それより提案って何?」

佳乃が言うと紀之は頭をあげて、ソファに座るよう促してきた。そして、また真っすぐ佳乃の顔を見ると、「ふうっ」と大きく息を吐いて喋り始めた。

「俺は、あかりと佳乃が笑ってる顔を見ていたいんだ。でも今、佳乃は時短勤務で仕事を続けながら、育児と家事と仕事で毎日本当に大変だと思う」

紀之の言葉を聞きながら、佳乃は無言で何度も頷いた。

―今さら何?

まっ先にそう思ったが、とりあえず続きをおとなしく聞く。

「あかりの母親は佳乃だ。母親の代わりなんて誰もできない。佳乃が仕事を続けたいと思っている気持ちもよく知っているし、続けてほしいとも思う。一度仕事から離れてしまった女性の、再就職の厳しさも知っているつもりだ。それから、佳乃が家事を手抜きするのが嫌いなのも知ってる」

紀之は必死に喋るが、彼が何を言おうとしているのか、佳乃にはいまいちわからなかった。


紀之からの提案。それに傷つく佳乃。




紀之の遠回しな言い方に頭を傾げながらも、彼が一生懸命言葉を選び、真摯な気持ちで向き合ってくれていることは、伝わってくる。

「でもな、佳乃。やっぱりこの3つを完璧にこなそうとするから佳乃が苦しんでると思うんだ。もちろん俺も“手伝う”なんて考えは捨てて主体的に頑張るけど、仕事をしてる以上限界があるんだ」

紀之が「手伝う」と言わなかったことで、少しだけ彼を見直す。

「それで考えたんだ。例えばこの3つの中で、手放せるのはどれかって。それは家事だと思うんだよ」

「どういうこと?」

「ごめん、前置きが長くなった。俺の同期の岡田っているだろう?あいつの家も奥さんが復職した時大変だったらしい。うちみたいに離婚危機もあったって」

そう言われて佳乃は思わず眉をしかめた。

家庭の問題、それも「離婚」ということを、いくら仲が良いとはいえ会社の同僚にもう相談したのかという気持ちが、つい表情に出てしまった。

だが紀之はそんなことまったく気にせず続けた。

岡田に教えてもらったという家事代行の「ベアーズ」や、ベビーシッターサービスの「キッズライン」など、おすすめのサービス名をいくつか並べた。

それ以外にも、炊飯器やヘルシオ、ルンバなど家電の2台使い、疲れた時は電車ではなく迷わずタクシーに乗ることなんかを、まるで決定事項のように言ってきた。

「ちょっと待ってよ紀之。そんなことしたら、一体いくらかかると思ってるの?それでなくても今は時短勤務で、私のお給料は減ってるのよ。それに、あかりは小学校から私立に入れたいって話してたじゃない。あなた現実をわかってないでしょ?」

まったく、あきれてしまった。紀之が言っていることなんて、ただのその場しのぎではないか。

それに、家事だって自分できちんとやらねば気が済まない。いくら信頼できると言っても、他人に家の掃除をしてもらうことには抵抗がある。

自分でやるからこその「良妻賢母」なのだ。

離婚に怯えた夫が、妻の機嫌をとるために考えた秘策だろうか。

佳乃は思いきり、これ見よがしに「ふん」と鼻で笑ってやった。

だが、紀之は不貞腐れることなく尚も食い下がってきた。

「最初にも言ったけど、俺はあかりと佳乃に笑っていてほしいんだ。何よりもそれが最優先事項なんだ」

紀之に、まっすぐ見つめられた。その真剣な表情に、少しだけ心が動いたのは事実だ。

たしかに、子どもを生んで復職した女性の「最初の数年間は、保育料やシッタ―さん代で給料が消えても、絶対に仕事は辞めなかった」という言葉は聞いたことがある。

佳乃も、その覚悟はあった。仕事を手放さないためには、今の東京ではそれも仕方ないと理解している。

ただ、紀之の提案を受け入れがたいのは、お金の話だけではない。

そういったサービスを利用する自分は、妻として、母として、失格なのではないか。自分の能力が足りないだけなのではないか、と佳乃は自分を責めてしまうのだ。

仕事でもそうだ。「できない」なんていう言葉は、極力避けてきた。

自分が頑張ればいい。自分が我慢すればいい。頑張れない自分が悪いのだ。

その考え方が、「良い子」だった佳乃に沁みついている。

だからせっかくの紀之からの提案も、素直に受け入れることなんてできなかった。

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ゆり子は佳乃の敵なのか?ゆり子の身にあることが起き、心境の変化が訪れる。