中国国内において西洋列強(日本も含む)が設定した利権のなかに租界地がある。租界とは主権は中国に属しながら、中国側に行政権がない(治外法権)極めて限定された地域を長期的に外国人に貸与された地域のことである。写真は筆者提供。

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中国国内において西洋列強(日本も含む)が設定した利権のなかに租界地がある。租界とは主権は中国に属しながら、中国側に行政権がない(治外法権)極めて限定された地域を長期的に外国人に貸与された地域のことである。アヘン戦争後の南京条約1842年により西洋列強に、広州・アモイ(廈門)・福州・寧波・上海5港を開港させ、最初にイギリス、次にフランス、次にアメリカが上海に租界地を置いた。その後天津条約1858年で、漢口・九江・南京など10港を開港、北京条約1860年に天津を開港させた。西洋列強は戦勝国の立場で特権を中国に強いる傾向が強く、あわせて中国内の内乱をもうまく利用し、租界地の拡大を図った。

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日本は日清戦争に勝利し、1895年下関条約によって重慶・蘇州・杭州・沙市の開港と専管租界開設の準備を開始、さらに1896年「日清通商航海条約」で上海・天津・漢口・蘇州・杭州・アモイでの租界開設を認めさせた。しかし、候補地の交渉では清国政府の外交戦術がうまく、条件の悪い墓場とか荒野を割り当てられるケースが多く、当時経済力の乏しい日本は市中心から離れ交通の不便な地域での発展が見込めず、途中断念するケースが多々であった。

沙市の場合は中国住民による抗日暴動事件や日本国領事館焼き討ちなどあり、福州・アモイも同じく租界設置には至らなかった。9つの租界地の中で、一定の発展を見たのは上海(共同租界)・天津・漢口ぐらいで、重慶・杭州・蘇州は最大でも100名程度、福州・アモイ・沙市は設立もなかった。当時の租界の歴史を大きくまとめると、1896〜1905年の開設期、1937年までの成長期、そして敗戦までの1945年の終焉期と3段階に分けられる。

天津には1898年から1943年にかけて、日本人租界地が置かれ、最大規模であった(上海は欧米との共同租界地)。明治維新後、天津は中国政府(清国)との外交の入口であった。1871年の日清修交条規締結以後、天津が日中間外交交渉の窓口となり、1874年の台湾出兵に関しても、外務卿副島種臣や全権便利大臣大久保利通が天津にて交渉、翌年の朝鮮問題も全権大使伊藤博文が天津に赴任している。1871年の条規で領事館を置く権利を得て、1873年に上海に最初の領事を設置、1875年に池田寛治が5年間副領事として天津に派遣、1883年には後に平民首相となる「原敬」が領事として赴任した。1896年7月、北京で日清通商航海条約が締結され、1898年8月には天津において約100万平米の租界地を得た。ただし、獲得した土地の南部は大半が沼沢地であり、まずは干拓(埋め立て)が最初の任務であった(地図1)。

天津租界地は、まずは海河に近い土地から建設が始まった。日本政府はのちに栄街(新華路)となる北側の旭街(和平路)までを第1期、栄街から春日街(河南路)を第2期とした。日本領事館がある花園街(山東路)から芙蓉街(河北路)付近が政治経済の中心地となった。1903年には、フランスから割譲された予備地を入れて最終的には124万平米となった。西北は福島街(多倫路)、南は住吉街(南京路)、東は秋山街(錦州道)、北は海河にかけての領域である。

1902年1月、日本政府は天津領事館を総領事館に昇格、第一代総領事には、伊集院彦吉が就任、1909年に栄街に移転。1915年には、宮島街(鞍山道)、花園街(山東路)角に、新領事館を建設した(写真1)。1922年には、吉田茂(戦後の総理大臣)が総領事として赴任、3年後には奉天総領事となっている。吉田茂は外務省記録から見ると、多くの報告書を残し、中国専門家としての一輪を見ることができる。その後、イタリア大使・イギリス大使を歴任、1939年に退官してから、戦後は自由党総裁として組閣、5次に渡り首相を務めた。

1894年日清戦争開始時には天津在留邦人は48名に過ぎなかったが、義和団事件、第一次世界大戦、日中戦争と数度の戦乱の度に邦人は増加、1931年に1万人、その後毎年1万人増加し、1941年には7万人近くになった。日本租界は9カ国の中で一番西北部に位置し、東はフランス租界、北は天津県城(旧城内)、北西部に中国人街三不管(南市スラム街)、南西部に日本軍支那部隊の駐屯する「海口寺」で、現在地下鉄一号線「鞍山道」駅から北西に走る「鞍山道」の左右に格子状に街路が出来た。

鞍山道(宮島街)と並行に斜めに走るのが、万全道(伏見街)・四平東道(浪速街)・哈蜜道(松島街)・瀋陽道(蓬莱街)・錦州道(秋山街)である。メインストリートは鞍山道(宮島街)になる。駅を降りまず見えるのが武徳殿(写真2)であり、柔剣道などで日本人が心身を鍛えていた。鞍山道を北西に向かうと、甘粛路(淡路街)で旧淡路小学校建屋(写真3)の遭遇、その周辺には日系企業の社宅や一軒屋など見ることができる。

北上すると日本総領事館(1949年解体)や警察署があったのが、河北路(芙蓉街)と山東路(花園街)に挟まれた地域である。日本総領事館(現科技金融大厦)の北、新華路(栄街)との間に、大和公園(現八一礼堂:写真4)と天津神社(現天津市豫商会館)があった。天津神社社務所は現存する(写真5)。その北に路面電車が通っていた和平路(旭街)があった。この路面電車で北の旧天津城内や東の仏国租界・英国租界に移動ができた。現在でも金融関係の建物が多いのが英国租界であり、ファッション店が多いのは仏国租界である。日租界は一般中国人と日本人が住む寂しい環境であったようだ。旭街の北に、曙街(嫩江路)があった。旧横浜正金銀行(現中国銀行:写真6)は英国租界にあった。天津租界地は天津政府の保護により、昔日の日本人住居跡などその痕跡を確認できるのが特徴だ。

■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、日中友好にも貢献してきた。