NYファッション界で成功したアケミさんに聞く「日本の女性はもっと活躍できます!」

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 ニューヨークで、あのトランプタワーの60階に住んでいた日本人女性がいる――。トランプ政権発足後、複数のメディアでそう取り上げられたアケミS・ミラーさんをご存じでしょうか。

 ニューヨークで25年間ファッションデザイナーとして活躍し、2013年に帰国後は、大阪でフェイスデザインスクールを運営しているアケミさん。その波乱万丈な半生は、学ぶところが多そうです。そこで、アケミさんにインタビューを敢行、日本の女性へのメッセージを聞きました。

 今回は、縁もゆかりもないニューヨークでいかにファッションデザイナーとして成功を果たしたのか、迫ってみたいと思います。
(以下はアケミさんのお話)

◆何のコネもないニューヨークに「とにかく行っちゃえ!」と

 日本がバブルで沸いていた1989年3月。私はマネージャーと2人で渡米しました。何のコネもないし、英語もうまくないけれど、スーツケース6個に作品を詰め込んで、とにかく行っちゃえ! と。日本の会社は側近達に任せて出かけました。

 実家がきもの関係だったので、子供の頃からきものに慣れ親しんで育った私。20代から京都で5つの着物ブランドのライセンスの契約をし、男性社会で古い体制のきもの業界ではとても異質な存在でした。

 23歳で上京してから会社を設立し、東京コレクションで和のテイストを残した洋服を発表。CNN等で大きな反響があり、海外で勝負してみようと思ったんです。

 懐古趣味ではなく、シャネルの横に立っても違和感のない美しい日本のドレスがイメージでした。洗練されたニューヨーカーたちの目にはどう映るのか正直わかりません。最低でも7年間は帰国しないと決めたんですが、不思議と不安が全くありませんでした。

◆マイケル・ジャクソンの姉の目に止まり…

 ワーキングビザの取得、会社、アトリエの設立、プロダクションの準備等を1年後にはすべて終え、翌90年の9月ニューヨークコレクションでついにデビューを果たします。しかも、話題のロイヤルトンホテルが私に半額で場所を提供くれました。ホテル内にあるフィリップ・スタルクのきれいな色の家具は私のドレス達にぴったりで、それを使ってフロアーショーに演出しました。

 ショーの後、思わぬ辛いハプニングもありました。初コレクションにもかかわらずたくさんのオーダーを受けて日本で作っていた商品は、湾岸戦争のテロ対策によって空港が閉鎖された時、JFK空港には着いているのに引き取れない事態になってシッピングできず、多額の借金も抱えました。

 それでも、ニューヨーク・コレクションでのデビューは、右も左も分からない中で新風を巻き起こせたと自負しています。

 ニューヨークはあらゆる物事が、日本の数倍のスピードで駆け巡ります。現地メディアに取り上げられた結果、ある人物に私の衣装が目に留まったのです。90年12月のことです。マイケル・ジャクソンの姉ラトーヤ・ジャクソンが、湾岸戦争に向かう兵士への慰問コンサートで私のデザインしたドレスを着ることになったのです。

 その翌日には早速ニューヨークポスト紙に取り上げられましたが、三菱地所がロックフェラーセンターを買収したのは約1年前の出来事。ジャパンバッシングが過熱していた時期に、米軍の慰問に訪れたラトーヤの衣装を外国人デザイナー、ましてや日本人デザイナーが手掛けたという事実はセンセーショナルだったようです。

 94年春夏に発売される、93年9月のニューヨークコレクションはファッションウィークと命名され、コレクションに選ばれた世界24名のデザイナーの中から、3人のデザイナーが記念すべき初日のショーを発表しました。その3人にカルバン・クライン、ダナ・キャランに加えて、なんと私が抜擢されたのです。3つのテントで同時に開催されました。