第3弾となる今回は、ワールドユースでの快進撃を回顧し、鹿島入団にまつわる秘話を明かしてくれた。写真:佐野美樹

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 ワールドユース開幕を目前に控え、小笠原満男はフィリップ・トルシエ監督の信頼を得て、先発の座を確保していた。

 フラット3の前にアンカーを置き、ダブルトップ下と両ウイングバックが横一線に並び、最前線には2トップが構える。その3-1-4-2システムで、小笠原は小野伸二とともに、2列目でコンビを組んだ。
 
「大会が近づいても、いいのかな俺でって感じだった。もちろん嬉しいんだけど、先発を獲ったって実感はなかったんだよね。で、トルシエはこう言った。『小野は攻撃が7、守備が3。お前は攻撃が3、守備が7だ』って。
 
 まあ逆じゃ守備は成り立たないと思ってたし、シンジのチームだから、俺はその周りを動きながらってイメージはできた。ちょうど鹿島で、ビスマルクとやってたしね。彼を押し立てるようにプレーしてたから、同じような関係だなと思って。違和感はなかったし、異議もなかった。チームのためと思って納得してたよ」
 
 U-20日本代表はグループリーグ初戦でカメルーンに逆転負けを喫したものの、その後はアメリカとイングランドを連破し、決勝トーナメントに進出。快進撃は止まらず、ポルトガル、ウルグアイ、メキシコと強豪をなぎ倒し、ついに決勝にまで駒を進めた。
 
「結果を見てもそうだけど、ボール回しとか試合内容でも上回れたというところで、すごく充実感があった。それまで日本が世界で戦う時って、なんとか耐えて耐えて1点取って勝つってのがイメージとしてあった。アトランタ五輪でブラジルに勝った時とかもそうだったよね。試合内容で勝ったかというとそうではない。それがワールドユースでは、どことやっても内容でも上回れた。あれは俺らにとって本当に大きな自信になったから」
 
 そんななか、小笠原はひとりの選手の振る舞いに感銘を受けていたという。鹿島アントラーズで僚友となっていた曽ケ端準だ。
 
 彼は3番手のGKとして帯同していたが、唯一のバックアップメンバーだった。つまり、榎本達也か南雄太が怪我でもしないかぎり、大会にはエントリーされない。メンタル面で相当に追い込まれていたはずだ。
 
「ベンチにさえ入れないから、最初は早く帰りたいって感じだったけど、本当によく俺らを盛り立ててくれてさ。準々決勝の前だったかな、『ここまで来たら絶対勝てよ』ってみんなに言ってて。あいつのためにも頑張らないとなって思ったよね。勝てば勝つほどチームがひとつになっていった。勝ってまとまっていくってこういうことなんだって、実感できた」

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 だが、決勝のスペイン戦は惨敗に終わった。
 
「(出場停止だった)シンジがいればちょっと変わってたかもしれないけど、やっぱり強かったよ。トルシエが『シャビはバルセロナでレギュラー獲ってんだぞ』とか言ってて、みんなで嘘でしょ、どんなもんなのって疑ってた。イナがガッツンガッツン行けばなんとかなるだろうって。大間違いだったね。あのイナをもってしても止まらなかった。身体はどっちかって言うと華奢でしょ。日本人が目ざすプレー像なのかもしれないなって思った。フィジカル勝負じゃなく足も速くないけど、判断と技術が図抜けてたよ。
 
 決勝は、個人としてもチームとしてもなにもできなかった。ただただ圧倒された。トントントンって勝ち続けて、行ける、強いぞって思ってたところで、ガツンとやられた。でもさ、俺らが成長するためには、すんなり勝つより良かったのかもしれない」
 
 大会を終えて、成田空港に降り立った彼らを待っていたのは、熱狂的なファンによる手厚い出迎えだった。健闘を称えてもらうのは、素直に嬉しい。だが、どこかで違和感を覚えていたという。21人のメンバーすべてがだ。。
 
「まだ決勝で負けた悔しさが残ってて、誰ひとり準優勝で『よくやったな』とは思ってなかったから。おめでとうって言われて、すごく違和感があったのを覚えてる。上には上がいるってのを噛み締めながら、もっとやらなきゃって思ってた。みんな一緒だよね」
 
 あの銀色の進撃から、18年が経った。ナイジェリアで戦った伝説の21名で、いまでも現役を続けているプレーヤーは12名にのぼる。いまでもやはり、気になる存在だ。
 
「俺らの世代は互いに負けたくないし、意識し合う。いい意味でね。俺なんかはみんなが活躍したら本当に嬉しいし、その一方で、活躍すればするほど俺も負けてられないって気持ちにもなる。ずっと刺激し合ってきた。周りがどう見てるかは分からないけど、俺はみんなをそういう目で見てる」
 とりわけ小笠原にとって、鹿島で同期の本山雅志と中田浩二は、スペシャルな存在であり続けた。
 
 1998年、鹿島の新卒入団は、後にも先にもないスーパータレント6人衆だった。小笠原、本山、中田はもとより、ユースチームから昇格の曽ケ端、熊本の大津高校からきた天才肌のプレーメーカー・山口武士、そして、奈良育英高校の攻撃的な左サイドバック・中村祥朗という顔ぶれ。いずれも清雲栄純監督が率いるU-18日本代表の常連だった。
 
 わたしは絶対に同意しないが、そこでも小笠原は「6番目だった」と主張する。
 
「ドラフトで言えば6人中6位。最後に決まったからね。豪華だったのはモトと中田なのであって、俺は注目選手でもなんでもない。補欠が獲れちゃったんだよ」
 
 高校・ユース担当だったわたしは、当時の鹿島の名スカウトコンビと懇意にさせてもらっていた。平野勝哉さん、椎本邦一さんのふたりだ。
 
 20年前のスカウト事情は、いまほど成熟していなかったかもしれない。ヤングタレントの潜在能力と伸びしろを見極め切れず、評判なり知名度、あるいは全国大会や世代別代表での経験を基本情報に、容易くプロの世界に導いていたクラブが少なくなかった。入団から1、2年で放出されるティーンネイジャーを何人も見ていた。
 
 そんななか、鹿島は段違いの価値基準を持ち、高校生たちに個別の近未来設計を提示していたのだ。小笠原はこう証言する。
 
「正直、何チームかが声をかけてくれた。10番を用意して待ってるとか、レギュラーとして即戦力で迎えるとか、俺の中ではなんでそうなるのかなって不思議だった。でも、鹿島の平野さんと椎本さんだけは、はっきり言ってくれたんだよね。うちは来てもそう簡単じゃないよって。
 
 ただ、きっとやりがいはある。数年かけてこのチームでレギュラーを獲れれば、間違いなく代表にもつながる。それだけのチームで、可能性があるから声をかけたんだって。そこにグッと来たわけ。そういうチームでやりたいって思った」
 
 だが、小笠原は決心できずにいた。秋を前に中田が決まり、本山が決まり、「これは試合に出れないなぁ」と考え始めていたからだ。
 
 そんな折、U-18日本代表の合宿で本山に掛けられた言葉が、背中を押したという。
 
「すごい迷ってて、やっぱり厳しいかなと思ってたところで、モトが『みんなで一緒に強くしよう』って言ってきてくれた。ちょっと軽い感じでね。心が動いたというか、みんなで競争しながら成長していくってのが、イメージできたんだよね。
 
 まさか現実になるなんてあの時は思ってもみなかったけど、結果的にはライバルがいて良かったんだと思う。中田が最初に出始めて、その後でモトが活躍したり。シンジとの関係もそうだったけど、いい距離感、いいライバル心でお互い切磋琢磨できたから、ここまでやってこれた」
 
 みずからを「6番目」と話した男は、やがて、常勝軍団のシンボルになっていく。
 
<♯4につづく>
 
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
 
※7月4日配信予定の次回は、鹿島アントラーズにおける20年間の波乱万丈を紐解き、ひとりのプロフットボーラーの成長の記録を追います。イズムの継承者としての矜持とは──。ディープトーク満載です。こうご期待!
 
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PROFILE
おがさわら・みつお/1979年4月5日生まれ、岩手県盛岡市出身。地元の太田東サッカー少年団で本格的にサッカーを始め、小6の時には主将としてチームを率い、全日本少年サッカー大会に出場。中学は市立大宮中、高校は大船渡に進学。インターハイや選手権など全国の舞台で活躍し、世代別の日本代表でも常連となり、東北のファンタジスタと謳われた。1998年、いくつかの選択肢から鹿島アントラーズに入団。翌年にはU-20日本代表の一員としてナイジェリアでのワールドユースに主軸として臨み、準優勝に貢献する。鹿島では在籍20年間(2006年8月から10か月間はイタリアのメッシーナにレンタル移籍)で7度のリーグ優勝を含む16個の国内タイトルをもたらし、Jリーグベストイレブンに6回選出、2009年にはJリーグMVPに輝いた。日本代表ではワールドカップに2度出場(2002年・06年)し、通算/55試合出場・7得点。Jリーグ通算/507試合・69得点。173臓72繊O型。データはすべて2017年6月27日現在。