もぬけの殻になった、筆者が勤めた町工場。工場の存続には、あまりに過酷な現実があった

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 前回までの工場シリーズでは、筆者の父親が経営していた零細工場を通して、立場の弱い下請け企業の現状を綴ってきた。様々な問題を抱える日本の中小零細企業だが、今回から数回に分け、下請けであるがゆえに生じる社内問題から、家族経営の内情、工場が閉鎖するに至った経緯などを綴っていこうと思う。

 2013年の秋、1つの町工場が静かにシャッターを下ろした。倒産したのではなく、意思を持っての廃業だった。

 製造大国であるこの国からすると、元々存在していたのか分からないほど極小で、当時の得意先も今頃は取引していたことも忘れているであろう「いち下請け工場」であったが、筆者にとっては幼いころから家庭と変わらないかけがえのない存在だった。今でもあの音、匂い、油にまみれた父親や、彼を必死でサポートする母親の姿を鮮明に思い出すが、それはもう今後、記憶の域を脱することはない。

 大学を卒業する頃、訳あって当時夢見ていた道を諦め、筆者はこの工場に正式に入社することになった。

 昔から見てきた視点とはやはり全く違い、社会経験ゼロの若い女性が、男性職人ばかりの製造業界で経営側として働くのは正直多くのハードルがあったのだが、中でも最も苦労したのが、職人が提供できる技術力・量と、取引先からのニーズをマッチングさせることだった。

 前回から述べている通り、父の工場の主な業務内容は、金型の研磨業だった。自動車のプラスチック部品を製造する際に使われる金型を、砥石やペーパーやすり、ダイヤモンドペーストなどで磨き、鏡のように滑らかにする。

 1つの作業を任せられるのに10年を要する職人業だ。自動車産業には欠かせない技術だったため需要はあったが、工場最盛期でも従業員は35人ほどしかいなかった。それゆえ、1人にかかる仕事量や責任の比重は、大企業のそれよりも相当大きかったと思う。

 昨今、深刻な社会問題となっている「ブラック企業」だが、筆者が工場で働いていた当時には、そういった言葉はまだ浸透していなかった。

◆日本の法では多くの企業が「ブラック」になる

 が、今あの工場が存続していれば、正直「ブラックだ」と言われていたかもしれない。それは経営の一端を担っていた筆者の力不足でしかなく、最後までついてきてくれた職人には今でも感謝と詫びの念しかないのだが、こうして父の工場がなくなり、日本の中小零細企業を客観的に取材・分析するようになると、多くの下請け工場が同じように「ブラック企業」にならざるを得ない状況へと追いやられていることに気付かされ、引き続き胸が痛むのだ。

 下請け企業がブラック企業にならざるを得なくなるのには、間に挟まれやすい立場に原因がある。父の工場で起きた事例から見てみよう。

 父の工場は創業以来、多くの大手工場から「浮気」されることなく仕事をもらっていた。その一番の理由は、どんな時でも依頼を断らず、与えられた納期を守ってきたところにある。下請けが大手と信頼関係を築き上げるのには最もシンプルな方法であり、そして最も難しいことでもある。

 自動車業界には製造ラインにおける独特の波や、突然の仕様変更などがあり、繁忙期と閑散期の差が著しく、その仕事量は1か月先でさえもなかなか読めない。大手が休む盆や正月、大型連休には普段の2倍以上の仕事が舞い込むが、先述したように、職人になるまでには相当な年数を要するため、繁忙期だけ即戦力になる職人を増員するというのは物理的に不可能だ。結局はその期間、1人が2倍以上の仕事をする他に術がない。

 それが一転、大手の自動車製造ラインが止まり閑散期に入ると、今度は構内の掃除や草むしりをする日が続く。活発に動くのは、営業担当の持つ携帯電話の発信履歴のみ。経営側の立場としては、むしる草が生えてくるのを待つ時ほど、精神的に辛いことはなかった。