結婚して家を買い、そして子どもを授かる。

今まで「幸せ」だと信じて疑わなかったもの。

しかしそれを信じて突き進んでいくことが、果たして幸せなのだろうか?

外資系化粧品会社でPRとして働く祐実、29歳。

結婚生活3年目、夫の浮気が発覚し、別居を決める。人形町に引っ越し、新生活を楽しむ祐実だったが、母親からの連絡でその気持ちをぶち壊しにされる。





―引っ越し終わった?独りは気楽で、いいでしょう。

母親である亜矢子からのメッセージに、祐実は複雑な気持ちになった。

彼女なりの励ましとは分かっているが、別居を決めた娘にかける言葉として、適切とは言い難い。

「他に好きな人ができたの」と言って家を出て行った亜矢子の奔放な性格に、祐実は昔からどうしても馴染めなかった。

母親なら母親らしくして欲しいのに、いつだって亜矢子は“女”なのだ。

そんな母親を反面教師に、今まで“優等生の祐実ちゃん”として人生を歩んできた。しかし、純の浮気を機に別居したという事実は祐実を苦しませていた。

「こんなはずじゃ、なかったのに…」

母親からのメールを見ながら、祐実は深い溜息をついた。

―全然、気楽じゃないわよ。別居なんて、蛇の生殺しみたいなものだわ。

亜矢子にはそう返した。しかしたしかに、久々の独り暮らしは気楽だった。

何よりいいのが、休日の食事だ。一人だったら何を食べても気が咎めない。今日は作る気力が湧かなかったので、浜町の成城石井で買ったチーズとワインで夕食を済ませた。

亜矢子は「新居に行きたい」と言ってきたが、何となく気が進まなかったので、祐実は来週末に『芳味亭』でランチの約束をした。


自由奔放な母親は未だ健在だった!?


人形町には何軒か洋食屋があるが、『芳味亭』は一度行って、すっかりお気に入りの店になった。一軒家の古民家がそのまま店になっており、今日は二階の座敷に通された。

祐実が部屋に入ると、隣のテーブルに一人の男がいた。手には有名な和菓子屋『玉英堂 彦九郎』の紙袋を携えている。それを見て、祐実も母親に何か手土産でも持ってくれば良かったと後悔した。

その男と目が合い、互いに会釈する。

30代後半くらいだろうか。ずいぶんと彫の深い華やかな顔立ちだった。そして驚いたことに、その男は「こんにちは」と声を発した。




人形町は下町の名残があるが、祐実の住んでいる辺りはマンションばかりだし、近所付き合いがある訳ではない。突然話しかけられて、祐実は少し戸惑った。

「この店、いいですよね。僕も週末の昼に、よく利用するんです」

その言葉は、祐実の返事を待っているという感じはなく、事実をそのまま言葉にしたように聞こえる。祐実もその調子に合わせ、こう返した。

「そうなんですね。私は2回目なんですけれど、趣があっていいお店ですよね」

“趣がある”なんてありふれたことを言ってしまった、と少し後悔したとき、ふすまが開き、亜矢子が現れた。

祐実は少し、名残惜しさを感じた。



亜矢子は今日、カナリア色のブラウスを着ていた。華やかなオーラは、歳を重ねても健在だ。

「人形町にわざわざ来たのは、初めてだわ。何でここにしたの?私の家の近くにでも引っ越してくれば良かったのに」
「お母さん、今どこに住んでるの?」
「渋谷の奥の方よ。彼のマンションがあるの」
「嫌よ。何で私が彼氏の家の近くに住まなきゃいけないのよ」

そんなことを話していると、洋食弁当が2つ、運ばれてきた。弁当には温かいハンバーグにエビフライ、コロッケがぎゅうぎゅうとひしめき合っている。“大人のお子様ランチ”のようで、見るだけで幸せな気持ちになるのだ。

「この辺り、美味しいお店が多いし、治安もいいのよ。浅草と雰囲気似てるし」
「たしかに、このエビフライすごく美味しい。エビフライなんて、久しぶりに食べたわ」

自分で聞いた癖に、祐実が人形町を選んだ理由なんてどうでもいいことのように、亜矢子は美味しそうに弁当を食べ始めた。

母親は別居の理由を聞いてこなかった。気を遣っているのか、祐実が話しだすのを待っているのか、しかしこの人のことだから、単に興味がないだけかもしれない。

「別居の理由、聞かないの?」

洋食弁当を食べ終わり一息ついたところで、祐実はそう聞いた。すると、母親は珍しく真面目な顔でこう言うのだ。

「聞いて欲しいの?」
「いや、別に。でも普通気になるでしょ。母親なんだから」

すると、亜矢子は真面目な顔でこう言った。


亜矢子の驚きの発言とは?


「あんたの悪いところはね、頭が固いところよ。親なんだから聞くはず、とか。別に私の勝手じゃない」
「……そうだけど」
「結婚するときだって、20代のうちに結婚して子供欲しいって、一時期とりつかれたように言っていたもの」

そう言い放ち、ごくりと水を飲んだ。

亜矢子は祐実の父親と離婚してから、当時付き合っていた男と一緒に暮らし始めた。モデルをやっていたときからのツテで、美容ライターとしてファッション誌にいくつかコラムを持っており、そこそこの稼ぎがあるらしい。だからこそ、自分の気持ちの赴くままに、男と付き合ったり別れたりできるのだ。

「私は、お母さんとは違うもの」

―あなたみたいにならないように、ひとつひとつ人生の駒を進めていっただけよ。

しかし亜矢子に何を言っても無駄だと、その言葉を飲み込んだ。

店から出て母親と別れると、祐実は散歩がてら丸の内まで行くことにした。人形町から丸の内まで、歩いて20分ほどだ。夏用の明るい色のワンピースでも買って、少しでも気分を上げようと思ったのだ。

行く途中、スマートフォンが振動したので確認すると、純からのLINEが溜まっていた。

―祐実、今日は何してるの?
―俺は、銀座まで行ってきました。祐実に似合いそうなブラウスを見つけたよ。
―新しい生活には、慣れた?

その一つ一つをじっくり読みながら、しかし返す気力は全く湧かなかった。別居のキッカケは純の浮気だが、祐実はその後の話し合いの方が辛い記憶として残っている。

結婚という始まりはあんなにも輝かしかったのに、別れはその何倍も、何十倍も、もしかしたら何百倍も辛い。情と損得、世間体、全てがごっちゃになって、冷静な判断を不能にするのだ。

純からの連絡は、一向に止まなかった。祐実が純の元から決定的に去ろうとすることを引き止めたい、その気持ちが彼を支配しているようだった。




新丸ビルのドレステリアに着き、店内を見渡す。

今年は肩を出すデザインのトップスが多い。祐実は純からの連絡をひとまず頭の隅にやり、気になったものを片っ端から選び、店員を呼んだ。

―いつもと違う服も、着てみようかな。

肩が少し空いた白いシャツ当てながら、新たな決意と言うより半ばどうにでもなれと思いながら、試着室に向かった。

洋服を買う時特有のアドレナリンは、何回経験しても良いものだ。

祐実の頭には、今日一言会話しただけの、あの男の顔がこびり付いていた。

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