その歌声は、透きとおっていて、美しい。歌というのが、その美しさによって、祈りになることもあれば、救いになることもあるのだと、改めて思い知らされるほどの美しさだ。朝霧が漂う森の中を、その日初めての陽射しを浴びながら流れる小川のように清らかで、と同時に、その美しさは、嵐が吹き荒れる夜の海でさえも凛と響き渡るような強さをも備えている。また、冬の夜に舞い降りる雪の音よりも、ひめやかでつつましい。

 こういう天賦の才に恵まれた人もいるのだなと、つくづく感心させられる歌声だ。歌声が美しいだけではない。この人に歌われると、普段、身の回りで乱暴に飛びかう日本語が、日本語という言語がこんなにも麗らかで、厳かで、気品があったのかと気づかされることさえある。

 だからこそ、歌手、薬師丸ひろ子に魅せられる人は少なくない。彼女の歌声を聴くたびに、忘れて久しいものと再会し、懐かしい大切なものに触れたときのように、心穏やかになるというか、心洗われるというか、確たる理由もなく心が安らぐ。時には、威儀を正さざるを得ないような、こともある。

 しかも、それは、我々のような凡人に限らず、日本のポップ音楽を先導してきた音楽界の才気たちも例外ではないらしい。名のある音楽家たちが、彼女への好意を口にしてはばからない。それどころか、例えば、「探偵物語」の松本隆と大瀧詠一、「メイン・テーマ」の松本隆と南佳孝、「Woman”Wの悲劇”より」の松本隆と呉田軽穂(松任谷由実)、「ステキな恋の忘れ方」の井上陽水、「元気をだして」の竹内まりや、「胸の振子」の伊達歩と玉置浩二、「紳士同盟」の阿木耀子と宇崎竜堂等々、そうそうたる面々が、これまで惜しむことなく彼女に楽曲を提供してきた。

 もちろん、そもそもの始まりは、1981年、同名映画の主題歌として彼女が歌った「セーラー服と機関銃」だ。来生えつこと来生たかおによるこの曲を歌ったのは、彼女が17才のときだった。年齢を重ねているから、歌をより深く理解できるとは限らないが、それにしても、十代の女の子が歌うには背伸びせざるをえないような歌であり、音楽的にも複雑な曲だったような気がする。しかしそれを、幼さの残る不思議な力で彼女は歌いこなした。その後も、必ずしも、等身大の彼女に投げかけられた作品ばかりとは限らない歌の数々を、彼女は彼女なりに歌いこなしてきた。

 そうやって、35年が経つ。この歌詞を本当に理解しているのだろうか、と自問自答を繰り返しながらの35年だったという。目まぐるしく流行が移り変わり、それに敏感に左右されるような音楽の世界だ。流行の変遷に加えて、アナログからデジタルへ、音楽を取り巻く環境も大きく変わった。彼女は、大切な宝物を守るかのように、歌との距離を置いたりしながら、時を乗り越えてきたような気がする。

 今回の新曲「めぐり逢い」も、井上陽水の書き下ろしだ。

 その井上陽水は、2013年の公演の際に、パンフレットで、彼女の魅力として、「誠実」さについて触れている。歌手としてはもちろん、女優として、彼女がかかわってきた仕事からは「誠実」さがいつも滲みでていると。

 もちろん、彼女も人間だから、人並みに年齢を重ねていく。それにともない、歌はどんな風に表情を変えていくのか。あるいは逆に、どんな風に変わらないのか。そもそも、その作品は、歌としてどういうことを彼女に託されたのか。その言葉、そのメロディー、そのリズム、そしてそれらが織り上げるハーモニーに、そもそも作者たちはどういう思いを託したのだろうか。

 彼女は、それらに対する確たる応えを持ってはいない。だからこそ、歌に真摯に向き合うしかない。それも、朴訥なほどに、だ。ひょっとすると、彼女が作品と出会ったときの姿にこだわりを持ち、いまもなお、オリジナル・キーで歌い続けているのもまた、歌への、作者たちに対する彼女の応えの一つなのかもしれないと思ったりもする。

 逆に、彼女に託すことで、歌がどういう扉を開けていくのか、その時代その時代によって、扉の先に続く景色がどういうものなのか、作者たちもまた、その鍵を彼女に託すことで大きな楽しみを得てきたのではないか。

 なにひとつ疎かにせず、その時々に注ぎうるあらん限りの誠意や敬意をもって歌と向き合ってきた彼女だ。そうやって、誰の真似でもない、彼女だけの道を切り開き、唯一無二というか、貴重な存在を築き上げてきた。しかも、そこにとどまることなく、歌声というかけがえのない鍵を手に、これからも、扉の前で立ち止まっては考え、悩み、我々に見知らぬ景色を覗かせてくれるのではないかと思う。

(文=天辰保文)