夜更けの赤坂で、女はいつも考える。

大切なものは、いつも簡単に手からすり抜けてしまう。

私はいつも同じところで立ち止まり、苦しみ、前を向こうとして、またつまずく。

29歳、テレビ局の広報室で働く森山ハナは、ひと回り年上のプロデューサー・井上と出会う。

元彼・渉とやり直すも、心の中では井上のことが忘れられないハナ。しかし今度は、井上の心が離れていってしまう?




「はー…、美味しかった。やっぱりハナの作るご飯が、1番だよ」

そう言って渉君は、ソファにごろんと寝転んだ。

2人で過ごす久しぶりののどかな週末。結局2日間とも、ずっと一緒にいた。

日曜の今日は、昼過ぎに起き出した渉君のために、トマトソースのパスタと簡単なサラダを作ってやった。

「そう。良かった」

ハナはにこりと微笑んで、キッチンに立つ。

「久しぶりの休みだから、どこか行かない?」というハナの提案も虚しく、渉君は1日中寝ていた。情報番組のADとして日々酷使されている渉君が、どのくらい疲れているかを知っているから、ハナはすぐに諦めた。

渉君は「笑点」を見ながら、くすくす笑っている。この人は本当に、テレビが大好きだ。

トマトソースで赤く染められたパスタ皿は、テーブルの上に置かれたまま。渉君が好んで飲むコーラの空き缶も、そのままだ。

―あーぁ…。

以前は渉君が汚した食器、散らかしたごみだって、片付けるのは無上の喜びだった。それが一体何だって、こんなに億劫なってしまっているのだろう。働き者の井上さんだったら、きっと一瞬でハナの分の食器まで洗ってくれるだろうに。

「ハナも、一緒にテレビ見ようよ」

その気持ちを察したかのように、渉君はキッチンに立つハナを後ろから抱きしめ、唇を耳に近づけてきた。

「……やめて、くすぐったい」

しかしそれはもちろん、否定しているようには聞こえなかった。ハナの口元は、ふっと緩む。

渉君はいつだってずるい。人に甘える天才なのだ。その誘惑に負け、ハナもソファに座る。

―井上さんは今、独りで何をしているのだろう。

そう思いながら。


気になる井上さんは今、何をしている?


老いた両親を見て、孤独を深める井上


井上は、成城にある実家に戻り父親に会っていた。口数の少ない父親と一緒にいてもお互い気づまりなのでほとんど話をすることはなく、結局母親の話を聞かされて終わった。

年をとれば、親に顔を見せることが一番の親孝行だ。子供を持たない井上にとっては、特に。

しかし気がかりなことに、父親は病院に運ばれて以来、すっかりしょげ返っているようだ。元々ひどく仕事人間で、経営していた不動産会社を人に譲ってからは、サークルだの旅行だのずいぶん活動的にしていたはずなのに、最近はめっきり行っていないらしい。

井上は心もとない気持ちになって、帰りの小田急線に乗った。

今日は、誰かと酒を飲みたい気分だった。



「…もしもし?」
「……ん」
「あら嫌だ。起こしちゃったかしら?」

電話の声の主は、静香だった。井上は家に着いたあと、そのまま寝てしまっていたようだ。

可憐な見た目に反し、低くて心地よい静香の声を聞いた途端、井上はふっと気が緩む。静香が会話の中で作ってくれる間合いは、いつだって心地よく井上を泳がせてくれるのだ。

「実は、全く元気じゃない」
「あら、あなたらしくないのね」

井上の不調を知りながらも、静香の声はどこか愉快そうだ。井上は思わず、苦笑する。少なくとも自分が抱えるこのどんよりとした気持ちは、他人からしたらどうでもいいほど軽いことなのだ。

「じゃあ1時間後に、『ノマドグリル・ラウンジ』ね」

静香は歌うように言って電話を切った。




この『ノマドグリル・ラウンジ』のぶ厚いTボーンステーキと、ルーフトップバーで飲む酒は、静香の大好物だ。

「それでね、その新人の男の子。彼女がいるらしいんだけど、月に1回も会わないらしいのよ。そんなことってあるのかしら?」

静香は、最近会社に入ってきたという若い男の話を、面白そうに話している。

彼女は昔から好奇心旺盛で、何だって面白そうに語る。しかも何を語るにも、非難めいた口調は一切ないのだから小気味いい。井上はその話を愉快に聞きながら、赤ワインを口に含んだ。

―珍しく、酔っぱらったかな。

酒に強い方だと自負しているが、休日はすぐに酔いが回る。特にワインはすぐ酔ってしまうので、最近はほとんど飲んでいなかった。

しかし酔って火照った体に夜風がひんやりと気持ちよく、さっきまでの重い気持ちが少し軽くなっていた。

―そう。俺はハナがいなくてもちゃんと、楽しめる。

その事実は、井上を強く励ました。

「あら…。大丈夫?」

静香が気づいた頃には、井上はずいぶん酔っぱらっていた。


一方のハナは、ある行動に出ていた。


「渉君、これからね、葵がどうしても家に来たいって言うの…。何かあったみたい」

自分でも驚いたが、ハナは渉君を家から追い出すための言い訳を、滑らかに口にしていた。

渉君と一緒にいてすっかり満たされたと思っていたのに、どうしても井上さんに会いたくなってしまったのだ。

テレビのスポーツニュースで、井上さんが大好きな阪神が勝ったと知ったからかもしれないし、いつまで経ってもごろごろしている渉君に嫌気がさしたせいかもしれない。

「え?葵ちゃん?じゃぁ、帰ったほうがいいかぁ」

井上さんへの嘘は下手なのに、渉君への嘘はするすると出てくる。“人は本当に守りたいものに嘘をつく”と聞いたことがあるが、自分の本当に守りたいものは、渉君との関係なのだろうか。

渉君は、葵が苦手だ。「正義感が強くて、万年学級委員」タイプの葵と渉君は、水と油だ。

「じゃあ。また来るね」

思いの外渉君は、あっさりと帰ってくれた。渉君が帰ったのを見計らって、ハナはタクシーで赤坂に向かう。

―私は、一体何をしてるんだろう?

自分でもよく、分からなかった。



タクシーの中で井上さんに何度も連絡したが、全くつながる気配がない。いつも2コール以内で電話に出る井上さんがこんなときに限って出ないのは、ハナにとっては大きな誤算だった。

マンション近くの赤坂氷川公園で降ろしてもらって、仕方なく時間を潰す。




30分ほど待ち、諦めて帰ろうと駅の方向に歩きだした時、井上さんらしき男の姿が見えた。

「…井上さん?」

しかし井上さんの隣には、彼を抱きかかえるように寄り添う女性の姿があった。その女の見た目は若々しく華奢だが、ハナよりは年上の女性だろう。

―見てはいけないものを、見てしまった。

井上さんをまるで自分のもののように考えていたが、彼だって自由気ままな独身男なのだ。それをすっかり忘れていた。

その場に立ちすくみ呆然としていると、井上さんに寄り添っていた女性はハナに気づいたようで、悠然と微笑みかけてきた。

―私は、全て知っているわ。

その女は、全てを見透かしているような、そんな目をしていた。

「……帰ろう」

ハナは井上さんに気づかれないように、足早に公園を後にした。

―私は一体、何をしているのだろう?

その日は、心の中で何回も何十回も、もしかしたら何百回もそう思った。

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井上への誤解は解けるのか?