世代宇宙船の派遣は道義に反する?

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著:Neil Levy(マッコーリー大学 Professor of Philosophy, Oxford Centre for Neuroethics Deputy Director)

 人類による他の惑星の植民化は、これまで我々が行なってきた地球破壊の規模を考えれば人類の生存には必要となると思われる。そのために世代宇宙船を利用しなければならないことはほぼ間違いない。世代宇宙船とは、出発する本人ばかりでなくその子孫までも扶養する宇宙船だ。地球と直近の居住可能な惑星とのとてつもない距離は、光速以上の速さで宇宙を移動する方法を発明できないという事実と組み合わせると、目的地に到着する前に何世代も生まれ、育ち、死んでゆくことを不可避にするのだ。

 世代宇宙船は、病院、学校、居住ゾーン、娯楽ゾーン、治安部隊、それにおそらく司法ゾーンまで備えた小宇宙の完全な社会でなくてはなるまい。そして、乗組員への食糧供給を可能とするため、農業、水産養殖、家畜の飼育も必要となるだろう(これは惑星植民化の取り組みにも必要となるに違いない)。したがってその設計は、エンジニアばかりでなく、社会学者にとっても大きな課題となる。すなわち、対人間の衝突を最低限に抑えるためにどのように乗組員を選択し、どのような環境を構築するのか。自滅的な退屈や遺伝子プールの極度の狭隘化などの大きなリスクなしに新惑星を植民する単一の包括的プロジェクトに取り組むにはどれくらいの人口が最適なのか。精神衛生上、船内に(樹木や植物、野生の鳥や小動物などが生息する)自然に近い環境が必要なのだろうか、という点だ。

 そのような宇宙船には設計者が直面する技術的、社会的課題と共に、興味をそそる哲学的、倫理的な問題が発生する。私が注目したいその問題とは、暮らし方を拘束し、プロジェクトの開始に異議を唱えることはできず、選択肢が極度に限定されてしまう次世代の人々に対するこのプロジェクトがもつ倫理的課題だ。

 世代宇宙船は、船内で生まれた大多数の子供たちが次世代の乗組員となるよう訓練できてはじめて機能する。次世代の子供たちには自分が追及するプロジェクトの種類に関しては全くと言ってよいほど選択肢はない。あってもせいぜい、料理長、園芸家、エンジニア、パイロットなど船内の業務だ。役割への割り当てが厳しく管理されていることを考えるとその選択の幅すらないかもしれない。たとえば、十分な数の人々が料理長の訓練に登録すると、そこにはもう就業の可能性はないからだ。また、瞑想したり、宗教界に隠遁したり、(両親が後にした社会でより一般的だった役割の)サービス産業で働く生活を選択することは不可能だろう。パートタイムにするか常勤で働くかを選ぶこともできない。

 無論、これは我々の多くにも身近な問題だ。地球と世代宇宙船との相違は、その種類ではなく規模にある。親というものはたいてい自分が価値をもつと考える暮らし方、国家、組織を子供たちが支持することを期待する(例えば、多くの親は子供が自分たちの信じる宗教外で結婚をすると戸惑い、デートや結婚は共同体の中で行われる可能性が高くなるという事実から、宗教学校は多くの親によってある程度正当化される。)一部の親は子供にほとんど選択肢、それもよい選択肢がないという事実に直面し(たとえば、極貧のコミュニティで生活する人々)、選択肢が限定される条件の遺伝子を保有する人々にも同様の問題が発生する(例えばハンチントン病)。しかし、よい選択肢が子供にほとんどないという事実によって生殖が道徳的に容認されなくなってしまうのだろうか?

 世代宇宙船の中で生まれた子供たちの暮らしは(より優れた医療、栄養、教育などが受けられることから)実際、今日貧困の中で生まれてくる多くの子供たちのそれよりはるかによいに違いない。しかしそれでも子供たちは自分が選択していないプロジェクトに拘束されてしまう。米国では、アーミッシュは子供が別の生活様式にさらされるのを制限するため子供たちに幼少期から学校教育を受けさせない法的権利を有している。アーミッシュがそうすることで子供たちの開かれた未来を制限してしまうことを心配する人々は、アーミッシュが夢見ているよりも子供たちを制限してしまう世代宇宙船を懸念するべきだ。結局、アーミッシュは成人になるとアーミッシュの共同体から出ることが可能であるし、そうしている人もいる。ところが世代宇宙船の場合はそこから離脱することは不可能で、船内で担う役割を選択することは不可能だ。

 さらに、船内で生まれた子供たちは地球で暮らす誰よりもあらゆる選択肢が制限されることになる。例えば、世界中の何百万もの女性たちは出産するか否かを自ら決められない。我々の多くはこれが容認し難い事実であり、だれもが自分の生殖機能をコントロールできるべきであると考える。しかし、次世代宇宙船で生まれる子供たちには事実上子供を産むか産まないかを選択する権利はない。計画の成功は(少なくとも大半の)乗組員が子供を産むことにかかっており、乗組員が(控えめに言っても)生殖に対する大きなプレッシャーをもつことは確実だ。また、パートナーを持つか持たないかを決める権利もほとんどない。おそらく、誰とパートナーを組むかの選択肢もあまりないだろう(誰かがパートナーを決めたら、他の者は残っている者のなかから選択しなければならないためだ)。

 このような問題を回避する唯一の方法は、幅広い選択肢が存在する複雑な社会を提供するに足る十分な巨大宇宙船を設計、建設して、幅広いライフスタイルを追求できるようにすることだろう。そのような宇宙船建設にかかるコストやそれほどの規模のものを推進することの困難さからこれは現実的な選択肢ではないことが示唆される。

 子供たちをプロジェクトと選択していない生活様式に拘束にしてしまうにもかかわらず、世代宇宙船が倫理的に許容されるか否かは、人類の存続という目標そのものがそれを正当化するだけ価値のあるものかどうかにかかっている。それは私が回答を試みる疑問ではない。世代宇宙船の実現がまだかなり先のことであることを考えれば、これは焦眉の急を要する心配事ではない。しかし、規模や形態は違っても、今日地球に暮らす多くの子供たちは、貧困、宗教的信念、迫りくる自然環境の悪化などを通して将来が制約された環境に生まれてくる。世代宇宙船の許容性を問うことは、地球という全人類にとって最大の世代宇宙船が人々の生活に課している制約の許容性に関する新たな視点を提供してくれる。

This article was originally published on AEON. Read the original article.
Translated by サンチェスユミエ