子を産み、子を育て、家を守る。

昔からあるべき女性の姿とされてきた、“良妻賢母”。

しかしその価値観は、現代においてはもう古い。

結婚して子どもを産んでも、男性と同等に働く女性が増えた今こそ、良妻賢母の定義を見直す時だ。

家庭も、仕事も、子育ても、完璧を目指すことで苦しむ東京マザーたちが模索する、“現代の良妻賢母”とは、果たしてどんな姿だろうか。

レコード会社で働く紀之は、佳乃と社内結婚し円満な家庭を築いていたが、佳乃が育休から復職して以来、夫婦関係は冷め始めた。そんな時、昔好きだったゆり子と2人で食事に行った事が佳乃の耳に入り、関係はますます悪化していた。




「あー、首痛ぇ……」

木曜の朝、会社のエントランスでエレベーターを待ちながら、紀之は右手で首の付け根を触った。

リビングのソファで寝るようになって数日が経つ。

そのせいだろう、最近は疲れが取れず首と腰に疲労が溜まっている気がする。

佳乃から「ソファで寝てくれる?」と言われて以来、寝室には着替えに入るだけで、ほとんど近づかなくなった。

何度謝っても佳乃は「今はまだ話したくない」としか言わないため、仲直りのしようもない。

週末、広島から佳乃の母親が来ていた時は、まだ会話は成立していたが、義母が帰ってしまってからは、最低限の会話しかなく家の中には重苦しい空気が漂っている。

「どうすりゃいいんだよ……」

小さく呟いてエレベーターに乗り込んだ。ちょうどその時、ポケットに入れていたスマホが震えた。画面を見て、紀之は深いため息を吐いた。

そこには、ゆり子からのLINEが届いていた。


ゆり子からの甘い誘い。紀之が返した返事は?


―今週時間ない?またちょっと相談に乗ってほしいんだけど。

ゆり子からのメッセージは、食事の誘いだった。紀之はそれを、睨むような表情で見つめた。

あの日、ゆり子と食事に行って夜中に帰ってしまったのが、今回のケンカの原因だ。

―ごめん、佳乃が変な誤解してしまったので相談があれば会社で聞きます。

変な情は入れずに、あえて敬語で返した。これが佳乃に対する、紀之なりの誠意だった。

ゆり子も察してくれたのだろう。ただ一言「わかりました」とだけ返ってきた。


妻の口から出てきた「離婚」という言葉


その日、自宅に帰ってもやはり、家の中は重苦しい空気が充満していた。

テレビから流れてくるやけに明るい笑い声や、陽気な音楽だけが虚しく響く。

ついこの前までは、あかりが生まれて大変なこともあるけど、それでもやはり子育ては楽しいし、なんだかんだ言っても夫婦関係は円満だと思っていた。

それがどうしてこんなことになってしまったのか。紀之は困惑していた。

「なあ佳乃、どうしたら許してくれるの?」

静かな食事を終え、後片付けも完璧に済ませ、あかりを寝かしつけて寝室で洗濯物を畳んでいる佳乃に声をかけた。

部屋の中には入らず開いたドアの横に立って、あかりを起こさないよう気を遣いながら。

佳乃は洗濯物を持ったまま目を伏せた。決して、目を合わせようとはしてくれない。少しやつれたように見えるのは、部屋の照明を落としているからだと思いたい。

あかりの小さな寝息が響く。

規則的に、吸って、吐いてを繰り返す小さな寝息。その絶対的に幸せな音と、この部屋に漂う不穏な空気はあまりに不釣り合いだった。

「何か言ってくれよ」

時間が止まってしまったかのように、何も反応しない佳乃にもう一度言った。

彼女は、あかりが寝ているベビーベッドにちらりと目を遣り、大きく息を吐きながらゆっくりと立ち上がった。

無言のまま、右の人差し指を出して「リビングに行きましょう」と合図してきた。その時佳乃の瞳が、薄暗い部屋の中できらりと光った。

リビングに移動すると、佳乃から思いがけない言葉を聞き、紀之は膝から崩れ落ちそうになった。

「待ってくれよ、嘘だろう?!」

思わず大きな声を出してしまい、佳乃からきつい目で睨まれた。だが、言わずには居られなかった。

「なあ、離婚なんて嘘だろう?!どうしちゃったんだよ……」

その言葉を、何度も繰り返した。


思いつめた佳乃。こまり果てた紀之がすがった相手は?


翌朝、ソファで目を覚ました紀之は全身にだるさを感じた。

昨夜佳乃から言われた「離婚」という言葉が、頭の中をぐるぐる回り、寝ようとしてもすぐに目がさえてしまい、やっと眠りに落ちたのは外が明るくなってからだった。

顔を合わせた佳乃は「おはよう」とは言ってくれたが、表情を変えることなく淡々としたものだった。

その日の夜はまっすぐ家に帰る気になれず、仲の良い同期の岡田を誘って『赤身とホルモン焼き のんき』に来た。

岡田は、紀之が佳乃に猛アタックをする際に協力してくれた男だ。

ここに来たらいつもオーダーする、塩ホルモン9点盛りとレモンサワーで空腹が満たされた頃、紀之が切り出した。




「佳乃がさ、離婚を考えてるとか言いだしたんだよ」

岡田は口に運ぼうとしていたグラスを中途半端な位置で止めて「はあ?!」と間が抜けた大きな声をだした。

「きっかけはちょっとしたことなんだけどさ。佳乃が仕事に復帰してからずっとイライラしてて、それが爆発した感じ?ほんと勘弁してほしいよ」

あまり重たい話ととられたくない。笑顔を作って明るく言ったが、岡田は神妙な面持ちで言った。

「お前それ、早めに手を打たないと本当に離婚されるぞ」

既婚者であり、4歳の男の子の父でもある岡田からの、真剣な表情での助言。それを聞いて、紀之の顔から笑顔が消えた。

岡田の妻は大手百貨店でバイヤーとして忙しく働いていると聞いたことがある。つい最近までは彼の奥さんも時短勤務をしていたため、紀之の家の状況は手に取るようにわかると言う。

だから説得力があって、よけいに怖い。

「お前、産後離婚って聞いたことあるか?」

岡田が言った聞き慣れない言葉に、無言で首を振った。

「お前、これくらい知っとけよ。あのな、産後2年以内の離婚率って、異様に高いんだよ。離婚まで至らなくても大抵、産後は夫婦関係が悪化するらしい。まあ、詳しいことは自分で調べろ」

「え、じゃあ岡田の所も離婚危機あったのか?」

「まあな。うちも奥さんが仕事に復帰してからがヤバかった。それにさ、うちの会社で時短勤務してる女性たちって、大半が復職後2〜3年で辞めていくんだぞ。知ってるだろう?」

当然のように聞かれて、知らないとは言えなかった。

「だからさ、それだけ大変なんだよ。子育てと仕事の両立は」

岡田は、すべてを悟ったような表情で言った。だが、紀之だって思うところはある。

「大変なのはわかるけどさ、俺だって家事も子育ても手伝って佳乃を助けてるんだぞ?」

そう言うと、岡田が紀之の顔を凝視して言った。

「お前今、絶対言っちゃいけない言葉を言ったな。“手伝ってる”って佳乃さんの前では絶対に禁句だぞ。“手伝う”じゃないんだよ。お前も主体的に参加するのが当たり前なんだよ」

―確かに……。

岡田の言葉に、反論の余地はなかった。だが……。

ではこれ以上何をすれば良いのか。毎晩飲み歩いているわけではない。ゆり子とは本当に何もなかったし、これから2人で会う事はもうない。

今以上に家事の分担を増やして仕事に支障がでるのも困る。今紀之が働いているのは家族のためでもあるのだ。家事分担を増やして仕事が疎かになれば本末転倒ではないか。

「岡田の家は、どうやって離婚危機を乗り越えたんだよ?」

半分ヤケになって聞いてみた。すると、岡田はにやりと笑みを浮かべて言った。

「金で解決するんだよ」

その顔は、紀之が知っている岡田の顔の中で、1番悪い顔をしているように見えたのだった。

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離婚を真剣に考え始めた佳乃。紀之の思いは通じるか?