元警視庁捜査第一課課長 久保 正行氏 

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警視庁捜査第一課といえば、殺人や強盗など、凶悪事件の捜査にあたる花形部署。その62代目課長が久保正行氏だ。無数の犯罪容疑者と取調室の中で向き合い、犯した罪を自供させるという難しい交渉に、体を張ってきた。

まず大切なのが挨拶だ。おはよう、こんにちは、と取調官のほうからきちんと口に出す。「どこか具合が悪くないか」「昨夜は眠れたか」と相手の体を気遣う言葉や、自分の所属と役職を伝える自己紹介も不可欠だ。たとえ犯罪者だとしても、相手を見下したら、交渉はそこで終わってしまう。服装もスーツにネクタイが必須だ。「年上の場合は、『○○さん』と言い、『君(くん)』付けは生意気に聞こえるので厳禁です。同世代や年少者は逆に相手との距離を縮めるため、名前を呼び捨てにすることも」。

当然、しゃべらないタイプが一番厄介。凶悪犯なだけに、自供したら死刑になる確率が高いので、しゃべらなくなるのももっとも。しかも、黙秘権が憲法で保障されている。そこをどう突破するのか。

「話さない原因を、探っていきます。過去に裏切られた経験があり警察を信頼できない、組織からの報復が恐ろしい、共犯者がいる、とにかく罪から逃れたい、といった理由が多い。視線、唇の乾き具合、顔色、表情、皮膚や手足の動きをチェックし、一つ一つ検証していきます」

そのとき、肝心なのがこちらの視線だ。自分の両目で相手の片目を見据えるのだ。実際、久保氏に相対し実演してもらったところ、すごい迫力だった。この人の前では一言も嘘はつけない、絶対見破られる、と縮み上がってしまった。

しゃべらない側も実は苦しい。自供して早く楽になりたい、と多くの犯罪者が思っているという。「犯罪者には必ず泣きどころがあるので、そこを探し、それを基点に相手を理解してあげる。この人になら話しても大丈夫だ、これ以上黙っていても意味がない、と相手に自然に思わせることが重要です」。

その際、大きな武器になるのが、幼少期にタイムスリップさせること。「容疑者の故郷の自然や町並み、実家、墓、出身校などの写真を目の前で見せることもある。『子どもの頃は親思いで、ひとり親だった母の手伝いをよくしていたんだってな』と実の母から聞いてきたエピソードを示す場合もある。純朴でけがれていなかった当時を思い出し、『そうなんだよ、警部さん』、と話し出したらしめたもの。『じゃあ、なぜこんな事件を起こしたのか』、と問いかけると、『実は……』と真相を話し始めます」。

久保氏は容疑者が「落ちる頃合い」がわかる。そういうときは、わざと真正面ではなく、椅子をずらして隣に座る。「男が女を口説くとき、隣に座って話すでしょう。あれと同じです。そのうえで、ここで落ちる、ここで落とそう、と思う瞬間がやってきたら、立ち上がって、横から肩を触ることも。それだけで、何人もの容疑者が自供しました」。刑事ドラマのような世界は本当にあるのだ。

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【交渉テク】
・親や故郷の話で、無垢な童心にかえす
・真正面ではなく、隣に座って落とす

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(文筆家 荻野 進介 撮影=市来朋久)