港区であれば東京の頂点であるという発想は、正しいようで正しくはない。

人口約25万人が生息するこの狭い街の中にも、愕然たる格差が存在する。

港区外の東京都民から見ると一見理解できない世界が、そこでは繰り広げられる。

これはそんな“港区内格差”を、凛子という32歳・港区歴10年の女性の視点から光を当て、その暗部をも浮き立たせる物語である。

白金で生まれ育ったお嬢様の格の違いを思い知り、港区タワマン・オワコン説に異論を唱えた凛子。港区派閥争いを見て、港区で生きる孤独を知るが...。




鬱陶しい梅雨は、永遠に終わらない季節のように感じることがある。

凛子は、雨が嫌いだ。お気に入りの靴も洋服も、雨の日は勿体ぶって大事にクローゼットの奥に仕舞い込むため、お披露目する機会がない。

髪だって、せっかく綺麗に巻いても15分もすれば湿気で元どおり。

今日も、家を出る時には完璧だった巻き髪もいつの間にかストレートに戻りかけている。

「だから雨は嫌いなのよね。」

取れかけの巻き髪を触りながら、時計に目をやる。

-18時15分

いつもであればまだ家にいて、準備をしている時間だ。しかし、今日の待ち合わせの相手は、18時半から食事の約束をしてきた。

「待ち合わせの時間、早すぎるわね。」

目の前に座る少し不服そうな顔をしている美奈子の、綺麗にまとめられた髪型を見て、一つに結んでくればよかったと少し後悔する。

「なんせ佐藤さん、先月茅ヶ崎に引っ越してからすっかり健康的になったらしくて。」

その時、お店の扉が開く音がした。

つい数ヶ月前まで港区の中心で生きていた佐藤だが、先月茅ヶ崎に引っ越した。そんな彼は、まるで別人のように穏やかな顔をして登場した。


港区は人を老けさせる?離れて初めて見えてきた本当の豊かさ


見栄なんて、最もいらない


「やぁ、凛子に美奈子ちゃん。遅くなってごめんね。」

時計を見ると、18時28分だった。

待ち合わせに遅れてさえいないのに謝る佐藤を見て、すっかり丸くなっていることに気がつく。

「佐藤さん、何だか穏やかな顔つきになりましたね。前は欲望が全面に出ていたというか、ブランドで固めていたイメージだったのに。」

相変わらず無神経な美奈子は、遠慮という言葉を知らない。

「美奈子ちゃんいいねー。ズケズケ言うその感じ、嫌いじゃないよ。」

大きな口を開けて笑う佐藤を見て、この数ヶ月間で何があったのか気になった。人は、住む場所によってこんなにも変われるものなのだろうか?

「ウーロン茶 ひとつ下さい。」

ウーロン茶を注文する佐藤の顔を、もう一度見つめ直す。

以前は、高級店しか興味がなかった佐藤。行くのは名だたる店ばかりで、“新店・名店・高級店”のワードに引っかかる店はほぼ制覇していた。

そして何より、ウーロン茶を飲んでいる姿なんて見たことがなく、ワインかシャンパンのイメージしかない。

「高い店、高い酒が良いとは限らないから。安くても美味い店なんて東京には溢れているし、そういう店を発見するのが最近楽しくて。」

最盛期の佐藤を知っている人間が聞いたら、唖然とするセリフである。

昔は、見栄だけで生きていた佐藤。高い物が良いと信じて疑わず、綺麗な女性を連れて歩くのが男の成功の証だと思っていた。

今、目の前に座る男性は、まるで別人だ。




港区毒が抜けた男の行き着く先


「なんで、佐藤ちゃんは茅ヶ崎に引っ越したの?」

店に着いてからずっと聞きたかった質問は、乾杯が済んでからようやく聞けた。

「一言で言うと...もうお腹いっぱいになったんだ。二人とも分かるだろう?この気持ち。」

佐藤の一言に、とっさに何も返せない凛子と美奈子がいた。

確かに、佐藤の言う通りだったから。正直に言うと、遊び尽くしたこの場所に、未練は何もなかった。

きっと今から港区へ入ってくる人たちは、少しの見栄と期待を抱いて足を踏み入れるのだろう。

しかし全てを経験し、全てを手に入れると、そこはただの砂の城と化す。

あんなに欲していたものでも、いざ自分の手の中に掴んでしまうと、それはとても滑稽で大した価値なんて感じられない。

そんなことが何度も続く。そして……。

-気がつけば、崩れている砂の城。

佐藤が港区を去り、静かな場所へ身を潜める気持ちは痛いほどわかった。


港区卒業後は二極化する?!


人生の本当の豊かさを見つめたくて


「でも佐藤さん、茅ヶ崎の方に引っ越したら、どうやって遊んでるの?暇じゃないの?」

美奈子が矢継ぎ早に佐藤に質問を投げかける。

「暇じゃないよ。都内まで車で1時間半くらいだし、意外に近いもんさ。」

「普段、向こうで何してるの?」

「海を眺めて、のんびりしているよ。週末はサーフィンをしたり、海沿いを走ったり。空気も良いし、気持ち良いよ。」

佐藤が海沿いを走る...

港区で毎日のように、朝まで浴びるようにシャンパンを飲んでいた佐藤からは全く想像できず、美奈子と顔を見合わせて笑ってしまった。

「佐藤さん、海とか似合わないよ。」

そう言いながら美奈子は笑っていたが、佐藤は幸せそうな顔をしていた。




そんな佐藤の話を聞きながら、凛子は過去に港区で出会った人たちの顔を思い浮かべていた。

男性は、家庭ができ、子供ができると世田谷に引っ越す確率が高い。

凛子が20歳くらいの頃、言うならば10年ほど前は田園調布に家を構える人が多かったが、最近は世田谷がトレンドなのだろうか。

一方の女性は、多岐に渡る。

結婚し、幸せな家庭を築いた女性たちの中でも、未だに港区にこだわる人も多い。子供をインターナショナルスクールに行せることに躍起になっている人も多く、華やかな生活を求め続けている。

一方で、地方の名士に嫁いだ人もいれば、千代田区、世田谷区に流れていった人も多い。

セレブ妻として人生を謳歌している人もいる一方で、“もっと良い人と結婚できるチャンスはあったのに”と言いたくなるような、一般的なサラリーマンと結婚した人もいる。

「人生なんて、プラスマイナス。今まで快楽を十分享受したから、これからはのんびり暮らしつつ、適度に刺激を楽しむよ。」

港区という空気は、肺だけでなく、心まで汚すのだろうか。店を出ると、東京タワーと六本木ヒルズが輝いて見えた。

「じゃ、俺は車で帰るから。」

この前まで見られなかったであろう、佐藤の清々とした表情。

小さくなる後ろ姿を見ながら、 本当の豊かさとは何かと自分自身に問いかけずにはいられなかった。

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三田在住なのに麻布十番と言い張るCAのプライド