結婚して家を買い、そして子どもを授かる。

今まで「幸せ」だと信じて疑わなかったもの。

しかしそれを信じて突き進んでいくことが、果たして幸せなのだろうか?

外資系化粧品会社でPRとして働く祐実(29)は、結婚して3年目を迎える。

子作りに励む祐実だったが、今の生活に疑問を持つようになる。2人は徐々にすれ違い、祐実は純から浮気の匂いをかぎ取る。




夫がまとっていた、自分以外の女の、人工的な甘い香り。

その香りが何を意味するのか。

祐実は瞬時に理解したものの、心が追いつかなかった。

まさか自分の人生に、「夫の浮気」という事件が起きるなんて、想像していなかったのだ。大学時代に知り合って、丸10年。祐実と純は、固い絆で結ばれていたはずだ。しかし、この件で祐実は痛烈に思い知らされた。

夫だって所詮は他人だ、ということを。

喜びも悲しみも共有し、まるで自分の一部のように思っていても、純が何を考えていたかなんて、分かっているようで全く分かっていなかったのだ。

その夜、祐実は純を静かに問いただした。

すると純は土下座しながら謝った。そして、祐実には隠しごとをできないと、あっさりと実情を暴露した。

「ほんっっとにごめん!!……会社の同僚と飲み会の帰りに、そういうことになって」

あまりにも正直に言う純に、もっと嘘をついたり、言うのを渋ったりすればいいのに、とそんなことすら考えてしまう。しかしそんな祐実の心は露知らず、とどめのようにこう言ったのだ。

「つい出来心で……。何回か関係があっただけなんだ。でも俺が愛してるのは、祐実だけなんだ。それだけは絶対に、何があっても、信じてほしい」

―“つい出来心”なのに、“何回か”?

後半部分の“愛してる”は、全く胸に響かなかった。


埋まらない夫婦の溝に、出された結論。


1週間の話し合いと、その後の冷戦期間を経て、祐実は豊洲のマンションを出ることにした。

この豊洲のマンションは元々、純がローンを組んで買ったマンションだ。もうここには住んでいたくなかった。

引っ越し代と、新しい家の敷金と礼金ぐらいは僕が出す、と純が言ったので、その費用は全額出してもらうことにした。

あまりのショックに毎日頭がぼんやりしていたが、祐実の引っ越し先は決まっていた。

―こんな街に、自由気ままに住めたらいいな。

水天宮に行った帰りからずっとそう思い続けていた、人形町だ。そんな願いが「夫の浮気」というきっかけで実現されるとは、皮肉なものだ。

インターネットで気になる物件を何軒か見つくろい、不動産屋に連絡し、その中で一番初めに内見した物件に決めた。

駅から徒歩2分、1LDKで家賃は15万8,000円。勤務先が永田町なので、半蔵門線が通っている水天宮前駅まで歩いて行けるのも魅力的だった。

“東京都中央区日本橋人形町3丁目”

その住所が記された契約書に次々とサインをしていく。




祐実はこの住所がいたく気に入っていた。中央区日本橋、という全く生活感のない場所に、最後「人形町」とつくのが何とも小気味良い。

「祐実は表面上は穏やかでも、本当は冷たい女なんだよ……。子作りにだってそこまで熱心じゃなかったし。俺は、子供だって、欲しかったよ」

サインの途中で、ふと純の言葉を思い出す。

「別れたい」という祐実と、「別れたくない」という純の話し合いは平行線で、2人の話し合いは泥沼にハマった。最後は、お互いを傷つけあう言葉だけが増えていった。

祐実は、純以外の男にも、同じようなことを言われたことがある。

「祐実の心の奥底には、絶対崩せない何かがある。普段は穏やかで優しいから分からないけれど、長く付き合っていけばいくほど、辛くなるんだよ」

―もう。一体、私にどうしろと言うの?

思い出したくないことまで思い出し、書き慣れない書類にミスしそうになる。

祐実は奔放な母親を反面教師にして、これまでの人生、なるべく淡々と生きてきた。

女性としての当たり前の幸せを、当たり前に手に入れたいと思ってきただけだ。

しかし現実には、このありさまだ。

そんな思いを巡らせながらも、全ての契約書にきっちりサインを終え、丁寧に封をした。


新生活で気を紛らわせようとする祐実の、ある呪縛


それから1ヶ月後。

何とか引っ越しを終えた祐実は、できるだけ何も考えたくなかったので、時間を見つけては近所をぶらついた。

たくさんの店が連なる人形町通りや甘酒横町、そして緑豊かな浜町公園。少し歩けば日本橋にも行けるし、15分ほど歩けば東京駅だ。人形町に引っ越して良かったと、改めて思う。

食べるのが好きな祐実は、新しいお店の開拓にも忙しかった。人形町は、隠れたグルメタウンなのだ。『浜町藪そば』や『ロットチェント』で、その味に感激した祐実は、行きたい店を次々とリストアップしていった。

何も予定のない土曜日の今日は、浜町のほうまで散歩に来ていた。「行きたい店リスト」でチェックしていた、パン屋があるのだ。




それは、『タンネ 浜町本店』という赤と白を基調とした可愛らしいドイツパン屋だった。土曜の昼前、店内は多くの女性たちで賑わっている。

祐実は、かたつむりのような形をした甘いドイツパン、シュネッケンを買い、せっかくだから浜町公園で食べようとテイクアウトにした。

緑豊かな浜町公園には、子供たちが大勢いる。

ベンチに座りシュネッケンを一口食べると、さくりとアーモンドの香ばしい匂いが口の中に広がった。一口食べると止まらなくなって、あっという間に食べ終えてしまった。

浜町公園で子供といる夫婦たちは、上質な服を身にまとい、楽しそうに子供と遊んでいる。

―俺は、子供だって、欲しかったよ…。

純が最後に見せた、苦渋に満ちた表情を今でも忘れることはできない。

幸せな結婚、可愛い子供。

女性として、当たり前に手に入れるはずだった幸せ。

どうしてそれが自分の手から、するりと抜け落ちたのだろうか。

私は、女性として何か欠落しているのだろうか?

そう考え出すと、止まらなかった。



家に帰ると、母親からメールがあった。

―引っ越し終わった?独りは気楽で、いいでしょう。

母親なりの慰めなのだろうが、祐実はそれには返信できなかった。

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信じてきた価値観が徐々に崩れていく祐実。そこで勃発した母親との軋轢。