佐藤監督に肩車される柴田。インターハイ出場を決めた日大藤沢の仲間たちとともに、歓喜を爆発させた。写真:茂木あきら(サッカーダイジェスト写真部)

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 日大藤沢が、2年ぶりのインターハイ出場を決めた。応援をしてくれた部員や父兄が集まるスタンド付近に選手たちが集まると、佐藤輝勝監督は目を潤ませながら、ひとりの選手に歩み寄る。彼を肩車すると、周りから大きな歓声が上がった。
 
 端から見ると、その光景はちょっと異様に見える。だが、スタンドが湧いたのは当然、理由がある。スポットライトを浴びた青年は、様々な困難を乗り越えて、県予選のベンチに戻ってきた。柴田晋太朗、18歳。大病に打ち勝った高校3年生の存在が、今予選躍進の原動力となった。
 
 高校1年時からトップチームの練習に参加していた攻撃的MFの柴田が、最初に身体の異変を自覚したのは、遡ること1年前。昨年7月、右肩にこれまで感じたことがない違和感を覚えた。
 
「まさか大きな病気だとは思っていなくて、放っといたら治るだろうと思っていた」(柴田)
 
 8月下旬。「県選抜に落ちてしまった選手の分もやらなきゃいけないと思っていたので、我慢をして続けていた」という彼は、神奈川県選抜の主将として参加した韓国遠征で右肩の痛みに耐え切れなくなってしまう。帰国後、病院へ直行。そこで告げられたのは病名は、「悪性骨肉腫」。幸いにも早期の発見だった。かつて大宮アルディージャでプレーし、同じ病を煩った塚本泰史氏の主治医に身を委ね、手術を行なった。
 
 悪性骨肉腫は多くの場合、膝に発症するケースが多いが、柴田の場合は右肩だった。サッカー人生を継続するために肩の筋肉を残す、という稀な事例となったが、手術は無事に成功。抗がん剤治療が始まった。
 
 闘病生活に挫けてしまっても不思議ではない。それでも心が折れなかったのは、家族や仲間、お世話になった人びとの支えがあったから。サッカー部の仲間は何度も病室を訪れ、抗がん剤の影響で短くなった柴田の髪型に合わせようと、3年生は皆が坊主頭にした。ともに病と闘う姿勢を示してくれたのだ。
 
 すると、彼の心にも変化が現われる。「苦もなく生活ができていたことを幸せに感じたし、周りの存在が本当に大切」。心の底からそう思えた。
 
 柴田は小学校時代、横浜F・マリノスのプライマリーに所属していた。その縁もあって、なんと中村俊輔(ジュビロ磐田)と、齋藤学(横浜)のふたりが見舞いに駆けつけてくれたのだ。
 
「(小学校時代の恩師である)西谷さんがケーキを届けてくれたのですが、『ちょっと飲み物を買ってくるわ』と言って、外に出て行くと齋藤選手がいきなり病室に入ってきた。その前にも中村俊輔選手が来てくれて、俊輔選手が3時間ずっと話をしてくれた。フリーキックの話とか中学時代に腐っていてサッカーに打ち込めなかった話とかもしてくれて……」
 
 家族だけではなく、仲間や偉大なふたりのJリーガーからも激励を受けた柴田。病に打ち勝ち、いつかピッチに戻ってみせる──。その決意はより強固になった。
 
「抗がん剤治療の1クールは1週間くらい。抗がん剤を入れるのはそのうちの2、3日。3時間ぐらい点滴で入れて、終わればまた点滴で水分を入れて流していく。その後、4週間は療養しなければいけない。でも、僕は(高校サッカーの引退まで)時間がなかったので(治療期間を)3週間にしてくれと言って、それを繰り返しやっていきました」
 
 懸命な治療が功を奏し、他の箇所に転移は見あたらず。5月には闘病生活を終えて学校へと戻った。迎えたインターハイ予選では佐藤監督の計らいで、決勝トーナメント初戦の川和戦からサポートメンバーとしてチームに帯同。闘病中に支えてもらった恩に報いるため、陰ながら仲間を支えた。