『小さな巨人』からは、『踊る大捜査線』の影響が随所に感じられる。特に安田顕演じる渡部刑事が象徴的なキャラクターだ。どこか実年齢よりも年上に見える点や、安田のしゃべりかたが普段と違うことが気になっていた。安田はこのキャラクターを演じるにあたり、演出家から「若かりし頃の和久さん(『踊る大捜査線』に登場する、いかりや長介演じるベテラン刑事)みたいな存在かもしれませんね」(TV Bros.のインタビューより)と言われていたという。

参考:長谷川博己VS香川照之の激しい攻防戦 『小さな巨人』の勝負はいよいよファイナルへ

 所轄と警視庁が対照的に描かれていたことついては、『踊る大捜査線』を見ていたものならば、容易に理解できるだろう。『踊る大捜査線』の下地があるからこそ、『小さな巨人』の対立構造もすんなり受け入れることができた。

 それに加え、『小さな巨人』は捜査一課長が警察組織の中でどういう存在なのかも詳しく描かれていた。一課長は「神のような存在」であり、一課長を経験したら、その裏でどんなことがあろうと、その地位と警察組織全体の利益が優先され、真実が隠されてしまう。歴代一課長を演じた富永(梅沢富美男)、三笠(春風亭昇太)、小野田(香川照之)が、泥水を啜った人間ならではの凄みを利かせ、毎回、香坂を脅かしていた。

 そこで香坂が同期の藤倉(駿河太郎)に言われたのが、「香坂、上に立て。当たり前のことが当たり前にできる組織に変えてくれ、頼む」というセリフだ。『踊る大捜査線』では、いかりや長介演じる和久さんが織田裕二演じる青島に向かって言う「正しいことをしたければ、偉くなれ」というセリフだが、この作品では、同期が主人公の香坂に向かって言うのだ。前回のレビューでも書いたが、藤倉は組織の恐ろしさを怪物に例えるセリフもあり、示唆に富んだ発言が多い人物といえよう。

 その上、このドラマは、ある学園の中で起こった事件が後半のモチーフになっていて、現実社会と繋がっているようなところがある。現実で無力感を感じている今こそ、正義を貫くためには偉くなるしかないという言葉がより響く。

 香坂を演じた長谷川博己は『シン・ゴジラ』でも、無力を感じながらも、正義を貫き、答えを出そうとしている内閣官房副長官の矢口蘭堂を演じていた。

 『小さな巨人』がスタートしたとき、香坂とその妻役の市川実日子が『シン・ゴジラ』に出演していたコンビであったこともあり、なにかと両作のつながりが取りざたされていた。『シン・ゴジラ』も、事件は東京湾で起こっているというのに、その事件を解決しようとしている人たちが会議室にいる様子が描かれていて、『踊る大捜査線』の時代からなんら変わっていない現状をシニカルに描いていた。

 その上で、長谷川博己演じる矢口蘭堂は、出世に対して当選同期の泉(松尾諭)に聞かれると「政治は敵か味方かしかいない、シンプルだ。性に合っている」とうそぶくが、矢口の行動を見れば、心の中は香坂と同じではないかとも思える。

 『シン・ゴジラ』には「好きに生きる」という言葉が出てくる。矢口の「好き」は正義を意味するようにも見えたし、好きを貫くためには一人ではいけないから出世をしたいのだと見て取れた。10年先にもこの国を残すことのほうが重要と考えているのも、それが自分の好き(正義感に逆らわず)に生きられることに繋がるからだ。

 『小さな巨人』では、会議室というよりも、組織と人との関係性の中に見えない敵がいることが描かれてきた。日本社会の中で正義を貫き、自分の好きに生きるためには、さまざまなしがらみを潜り抜けなければいけない。その意味で、『踊る大捜査線』、『シン・ゴジラ』、『小さな巨人』で描かれてきた警察組織、政治家、権力者たちの在り方は繋がっているのではないだろうか。(西森路代)