2017年の東京を生きる大人の女性が、悔いなき人生を歩むために身につけるべき「品格」とは?

30歳で婚約破棄。

未来に絶望した千晶は、導かれるようにして、ナンタケットバスケット教室「エーデルワイス」を主宰する高貴な妻、白鳥雪乃と出会う

雪乃の助言で前向きになれた千晶だが、ようやく心の平穏を取り戻した時、元婚約者・涼ちゃんから連絡があり心乱される。




匂いと声の中毒性


「復縁はありえないですね。浮気癖って、一生治りませんから」

ランチタイムに訪れたイタリアンレストラン『NORI』。

白を基調とした明るく開放感のある店内は気持ちが良い。それにサラダバーがあって、一人暮らしで万年野菜不足の千晶と後輩・あず、2人のお気に入りの店である。

元婚約者・涼ちゃんから連絡があったことをあずに相談してみたのだが、あっさり一刀両断されてしまい千晶は返す言葉もなかった。

しかしあずの言うとおり、ヨリを戻したところできっとまた、彼は同じことを繰り返すだろう。

「ほんと、その通りよね...」

-千晶、本当にごめん。俺にもう一度だけチャンスをくれないか。

...口先ばっかり。涼ちゃんは、いつだって。

そう思うのに、それでも耳から離れない、彼の甘く柔らかい声色。声と匂いには中毒性がある、と千晶は思う。

涼ちゃんの腕の中で、彼の匂いに包まれた時の安心感を。「大好きだよ」と囁かれた時に広がる、満ち足りた感情を。

もう一度、味わいたい。

それは本能の叫びであり、これに抗うのは女にとって至難の技なのだ。

-エーデルワイフなら、何と言うだろう。

食後のコーヒーをすすりながら、千晶はふとエーデルワイフこと、白鳥雪乃を思い出した。

雪乃の左手薬指にはパヴェリングが光っていたから、おそらく結婚しているはずだ。もっとも、彼女の口から夫や子どもの話を聞いたことはなかったが。

考えてみれば、雪乃は自分のことをほとんど話さない。それゆえ彼女のプライベートは謎に包まれていた。


涼ちゃんの言葉に揺れる千晶。自分の境遇を嘆く千晶に、雪乃が教える人生哲学


人生は平等?


単純作業は、無心になれて良い。

日曜の朝、ナンタケットバスケット教室「エーデルワイス」で籐を編む作業に没頭しながら、千晶は心の水面が凪でいき、平穏を取り戻す感覚にホッとした。

これまでの人生、千晶はお稽古通いなどとは無縁の生活を送っていた。

千晶が務めるイベントプロデュース会社から貰う給料は決して多くない。ギリギリの生活というわけではないにしろ、お稽古に費やす余剰資金などなかった。

それでも導かれるようにして門を叩いたのは、精神的に追い詰められた千晶が深層心理で必要としていたからかもしれない。

手仕事に無心で集中していると、心の雑念が取り除かれていく気がする。それは今の千晶にとってありがたい収穫だった。

涼ちゃんの声を聞いてしまって以来、千晶の感情は「大嫌い」と「やっぱり好き」を振り子の如く行ったり来たり、せわしない。

それは大いに千晶を消耗させ、心に荒波を立てていたから。

「エーデルワイス」のレッスンルームにある大きな窓にはレースのカーテンがかかっていて、その隙間から、朝の柔らかな光がふんわりと差し込む。

窓辺に立つ白鳥雪乃は、今日も真っ白なサマーニットのワンピースに身を包み、安定して穏やかな表情を崩さない。

その佇まいはまるで発光しているかのように周囲を照らし、千晶を含む「エーデルワイス」に集う生徒たちの心を、無条件に明るくした。




「そういえば、今日結衣さんは...?」

この時間のレッスンにいつも参加している幸せな新妻・結衣の姿が、今日は見当たらない。

「結衣さんは今日、結婚1周年のお祝いでご主人とデートなんですって。仲が良くて羨ましいことね」

雪乃の言葉を聞き、千晶はまた無駄に傷ついてしまう。

結衣のインスタグラムに投稿されていた、幸せを競うように並ぶ写真たちを思い出したのだ。

女は、自らの幸せをどうにも隠しておけない生き物である。

それまでは配慮ある大人だと評価されていた人であっても、「結婚」という、女を幸福の絶頂へと導く無敵カードを手にいれた後というのは、どうやら判断を司る神経が一本切れてしまうようなのだ。

そんな女の浅はかさも、同じように心満たされた環境にある者にとっては微笑ましくも映るのかもしれない。

しかし、婚約破棄をして間もない千晶に、そんな心の余裕はない。ただただ苦々しい気持ちで眺めるほかないのだった。

他人の幸せと千晶の境遇は、まるで関係がない。それに、幸せは人と比較するものでもない。

頭ではわかっていても、苦労知らずのお嬢妻・結衣のことを妬ましく思う心の声が、つい口から出てしまった。

「結衣さんは私と違って、すべてに恵まれていて本当に羨ましい...」

思った以上に粘着質な声色になってしまい、「しまった」という表情を浮かべた千晶を嗜めるように、諭すように。雪乃は軽やかに断言した。

「千晶さん、それでも人生は“長い目で見れば”平等なのよ」


結衣を羨ましく、妬ましく思う千晶。しかしこの後、思わぬ光景を目にする?!


幸せなはずの新妻の、涙


2時間無心で作業をしても、千晶のナンタケットバスケットは3cmほどしか編み上がらなかった。まだまだ、先は長い。

ナンタケットバスケットは、籠のエルメスという異名を持つ高級品だ。

雪乃と出会った日、興味を持った千晶はナンタケットバスケットについて調べてみたのだが、市場価格が数十万と知った時は我が目を疑った。

著名な作家ものになると100万円を超えるものもある。

ただの籠バッグに?!最初はそう思ったが、いざ自分で作ってみるとその価格設定にも納得せざるを得なかった。

とにかくすべて地道な手作業で作り上げるので、完成までに相当な時間と労力がかかるのだ。

「エーデルワイス」を出た後プラチナ通りを駅に向かって歩きながら、千晶は雪乃に言われた言葉を思い出していた。

-人生は“長い目で見れば”平等なのよ。

彼女の言葉はいつもすっと心に染み入るのだが、今回に限ってはすんなりと承諾できないところがあった。

私情を抜きにしたって、やはり自分と結衣の人生が平等とは思えない。

千晶の実家は埼玉で、県立高校から一浪ののちに慶應義塾大学に入学した。卒業後は広告代理店を志望したがあえなく惨敗。

就職活動中に出会った縁で代理店OBの男性が起業したイベントプロデュース会社を紹介され、そこに就職を決めた経緯がある。

とにかくこの30年、一筋縄ではいかない人生だった。おかげで不屈の精神が鍛えられたが、正直、弱い女のままでいられるならそれで良かった。

女が強くなって、良いことの方が少ない気がする。

一方の結衣はというと、まさに白金台に実家があり、お嬢様学校として名高いエスカレーター式女子校の出身だと聞いた。

一度も働いたことがないと言っていたから、いわゆる「家事手伝い」ののちに結婚したのだろう。

この差のどこが、平等だと言えようか。




プラチナ通りは、いつも上品にさざめいている。

立ち並ぶブティックやレストランに臆することなく入れるようになったのだって、千晶にとってはつい最近のこと。

しかしおそらく結衣は、幼い頃から母親に連れられ出入りしていただろう。

そんなことを考えながら、白金台の交差点に差しかかろうとした時だった。前方に見覚えのあるシルエットを捉え、千晶は思わず立ち止まる。

-あれは…結衣さん?!

刺繍が施された淡いグリーンのカーディガンを肩にかけ、ミニサイズのレディディオールを手にした結衣が、そこに立っていた。

結婚記念日でご主人とデートのはずだが、傍に男性の影はない。

「結衣さん」

迷ったが、無視するのも憚られたので声をかけてしまった後で、千晶は「しまった」と後悔した。

結衣は、垂れ気味の大きな瞳に、今にもこぼれ落ちそうな大粒の涙を溜めていた。

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長い目で見れば人生は平等…苦労知らずのお嬢妻・結衣の隠された悩みとは。