水戸でプロとしての一歩を踏み出した2011年当時。塩谷は柱谷監督の下で逞しく鍛え上げられた。写真:上野雅志

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 僕は、やさぐれていた――。

 自身の人生を振り返った時、塩谷司が自嘲的に語った言葉である。

 
 国士館大に入った頃、そのレベルの高さに驚いた。「自分は試合に出られない」と諦め、練習に身が入らない。いつしか渋谷や新宿で遊ぶ生活に身を置くようになった。そのまま卒業後はサッカーを諦め、サラリーマンとして生計を立てるんだろうと思っていた。大学2年の時、特別コーチとして指導にやってきた国士館大OBの名選手・柱谷哲二に「ちゃんとサッカーに取り組め。お前には未来がある」と声をかけられた時はモチベーションが上がったが、それも長くは続かなかった。
 
 そんな彼の人生を変えたのが、3年の夏、突如として塩谷家を襲った「父の死」である。国立大学に進学したばかりの弟も、中学生の弟もいる。母の生活のこともある。長男としてとるべき道は、大学をやめ、地元に戻って働くことだ。
 
 そう決意した塩谷を翻意させたのが、当時の監督だった細田三二氏の「大学は続けろ。今やめたら、もったいない。お金のことなら相談に乗る」という電話だった。母も、「あんたが卒業するまで、頑張るから」と言ってくれた。
 
 やるしかない――。
 
 翌年、国士館大監督に就任した柱谷に、塩谷は訴えた。
 「何でもします。プロになるには、どうすればいいんですか」
 「その言葉に嘘はないな」
 「はいっ」
 
 そこから、彼のシンデレラのようなストーリーが展開される。
 
 2011年、プロからはどこからもオファーがなかったが、水戸の監督に就任した柱谷哲二に引っ張られるような形でプロ入り。水戸でいきなりレギュラーを獲得。その身体能力の高さで玄人筋の注目を集めた。
 
 2012年、夏の移籍期間に広島へ。水戸・柱谷監督から森保監督には「塩谷を日本代表に育てろ」というメッセ一ジが届く。11月23日、広島の初優勝を決めたC大阪戦でリベロとして先発。栄光をピッチで味わった。
 2013年、ファン・ソッコとのポジション争いを制し、全試合出場で連覇に貢献。
 2014年、日本代表に初選出。Jリーグベストイレブンに。
 2015年、3度目の優勝に中心選手として大きく貢献。
 2016年、オーバーエイジ枠としてリオデジャネイロ五輪に出場。
 
 まさに順風満帆。彼が年代別代表に選出されなかったことが理不尽に思えるほど、ポテンシャルは十二分に開花していた。
 広島に移籍してからは圧巻のドリブルからストライカーかと思えるほどのシュートの上手さ、さらにFKでも直接決めるなど、彼自身が驚きを隠せなかった攻撃力の高さを発揮。特異といっていいスタイルを作り上げた。
 
 だが、勢い込んで臨んだ五輪、特にナイジェリア戦で完敗して以降、塩谷は迷い始めた。
 
 このままでいいのか。
 急激な成長によって、塩谷は多くの栄光を一気に手に入れた。だがあまりに順調だったがゆえなのか、一瞬の停滞が心を突き刺す。「(自分自身に)マンネリ感や行き詰まりも感じていた」と正直に告白する。
 
 海外へ行きたいという想いを隠すことはなかった。五輪では試合を追うごとにパフォーマンスを上げていった実績を考えれば、海外の選手を相手にしても慣れれば戦える。国際舞台で活躍すれば、代表への道も拓ける。その自信はあるが、具体的なオファーには至らない。クラブとの契約に「海外移籍の場合は、違約金を低減する」という条項を盛り込むことで海外進出のハードルを下げることもできるが、「移籍金はクラブに残したい。自分を高く買ってくれるクラブに移籍しないと意味はない」という信念は揺るがなかった。
 
 揺れる想いのなかで彼は迷い、ピッチの中での集中力も散漫になった。五輪から戻ってきた後の塩谷は、それまでのような前を向いて闘う強い意志や目標を掴むためにガムシャラに闘う意気込みを感じることができなかった。