阪神淡路大震災の直後に開催された、今や“伝説”の全日本プロレス大阪府立体育館大会。メインの三冠ヘビー級王座戦、川田利明vs小橋建太(当時は健太)は震災被害も生々しい中にあって、ファンに未来への希望を抱かせるに十分の熱闘となった。

 1995年1月17日未明、関西地区に甚大な被害をもたらした阪神淡路大震災。全日本プロレス社長のジャイアント馬場は、2日後の19日に『新春ジャイアントシリーズ』大阪府立体育館大会を予定していたが、これを開催するか否かで大いに悩むこととなる。
 各所からの情報を集めたところ、どうやら会場自体は無傷だったという。しかし、交通網は寸断され、ファンが会場まで来られるかどうかも分からない。そもそも当日のチケットを持っていたファンやその近親者に、被害が及んでいるかもしれない。
 周辺では救助活動も続いている中での興行開催を、不謹慎と批判する声もあるだろう。同シリーズに参加していたメンバーは、スタン・ハンセンやアブドーラ・ザ・ブッチャーら日本通の常連外国人で、被災地入りの説得は可能だろうが、しかし、何か事が起きたときには補償の問題が生じるに違いない。

 他にもテレビ中継をどうするかなど問題が山積する中で、馬場は最終的に予定通りの開催を決断する。
 「その理由としては、大会を楽しみにしていたファンにとって、プロレスが希望の灯となればいいというのが一番だったでしょう。そして、その決断を後押ししたのが、試合内容に対する絶対的な自信ではなかったか」(プロレスライター)
 当時の四天王を中心とした全日の試合であれば、決して不謹慎とは言わせず、会場を訪れる観客を必ず満足させることができるという選手たちへの信頼だった。

 そうして当日、夢の4大カードとしてラインナップされたのは、田上明vsトミー・ドリーマーによる四天王とハードコアのシングル対決。ハンセン&カンナム・エクスプレスvsスティーブ・ウィリアムス&ジョニー・エース&ジョニー・スミスの外国人ナンバーワン決定戦。馬場&ジャンボ鶴田&三沢光晴の三巨頭に“あすなろ”秋山準&大森隆男&本田多聞が挑むチャレンジマッチ。
 そして、メインはもちろん三冠ヘビー級王座戦。前年10月にウィリアムスを破って王座に就いた川田利明が、小橋建太を挑戦者に迎える初防衛戦であった。
 「四天王の中でも、とりわけ川田の絡む試合はこの頃から名勝負として評判が高かった。正統派の系譜を継ぐ三沢、小橋、田上の中に入って頑固さと職人気質を漂わせる川田は、いい意味でアクセントを加える存在だったのです」(同)
 危険度の高い技が連発される四天王プロレスにおいては、ことさら対戦者同士の信頼関係が重要となる。相手の技量を信じなければ、大技を仕掛けることも受けることもできない。ただし、それも度が過ぎると観客からは“なれ合い”と受け取られかねない。そんな予定調和的なムードをぶち壊すことが、川田の価値となり魅力となっていた。

 このときの小橋戦でも象徴的な場面があった。チョップの打ち合いの際、小橋が胸筋に力を込めて受けに備えていると、川田はそんな小橋のガラ空きになった喉元に手刀を打ち込んだのだ。思いもよらぬ攻撃に、小橋は一瞬驚いたように目を見開くと、喉を押さえてリング上をのたうち回った。
 しかし、川田はそんな様子を見ても表情を変えずに追撃を与えていく。そういう相手の嫌がる攻めが瞬時に出てくるあたり、周囲が川田の性格が悪いと指摘するのもうなずけようか。
 「川田自身は、寡黙で偏屈なキャラクターを“リング上の演出”と明言して、実際にリングを離れたときはよくしゃべるし冗談も飛ばします。だけど、それでもやっぱり変わった人ですよ。例えば、リングを離れた2010年頃、川田は居酒屋『麺ジャラスK』を開店しましたが、店名に麺とあるからこっちは褒めたつもりで『ラーメンがおいしい』と言うと、真顔で『ウチはラーメン屋じゃないんで』とくる」(スポーツ紙記者)
 試合後のコメントで相手の悪口ばかりに終始して、結局、何一つ使えなかったとの話もある。

 だが、そんな川田の毒気は、小橋の真っすぐな性格と相性が特によかったようだ。この大阪での試合とその翌年の武道館は、完全決着を基本としていたこの頃の三冠戦にあって、2度にわたっての60分フルタイムドローとなっている。
 「川田のキツくて嫌らしい攻めにも、小橋は気持ちを切らさずについていく。それだから長時間の試合も成立するのでしょう。川田の試合作りのうまさはレスラー間でも定評があるだけに、単に長いだけの凡戦になる心配もない」(同)
 この日の試合もやはり馬場社長の期待通りの好勝負となり、試合後には川田と小橋、そして大会開催に対しての“全日本コール”が満員5600人の観客から送られたのだった。