夜更けの赤坂で、男はいつも考える。

大切なものができると、なぜこんなに怖くなるのだろう。

僕はいつも同じところで立ち止まり、苦しみ、前を向こうとして、またつまずく。

41歳、テレビ局のプロデューサーである井上は、ひとりの女と出会う。

彼女の名前はハナ、29歳。ひと回りも年下の女だった。

ハナの友だち・葵に、ハナには一緒に住んでいる彼氏がいると知らされた井上。井上の反応は?




「ハナには、一緒に住んでいる彼氏がいますから」

『バー ティアレ』で、ハナの友人・葵が突然発した言葉は、井上にとって正直想定外だった。

想定外、というよりも不意を突かれた感じだろうか。しかし井上は、咄嗟にこう返した。

「知ってるよ」

井上の動揺は悟られなかったはずだし、“知ってるよ”という言葉に、1ミリの乱れもなかったはずだ。

「さぁ、帰ろうか」

化粧室から帰って来たハナにだって、いつも通りにこやかに接した。

その後2人と別れた井上は、会社に戻った。途中まで作っていた企画書を、仕上げてしまおうと思ったのだ。

仕事をし始めると、気づけばいつもの3倍速くらいでパソコンのキーを叩いていた。

プライベートで考えたくないことがあるとき、仕事は一段とはかどる。井上はそうやって30代を駆け抜け、今の地位を築いてきたのだ。

企画書を8割方仕上げて一息ついたとき、スマートフォンにメッセージが届いていた。井上が懇意にしているベテランの構成作家からだ。今企画している新番組にオファーしようと思っていた男だった。

―大変申し訳ないのですが、明日急用が入ってしまいました。

明日打ち合わせがてら飯でも、と誘っていたが流れてしまった。悪いことは、重なるものだ。

そのメッセージをきっかけに集中力が途絶え、井上は会社を出た。

赤坂の夜はもう、更けきっていた。


落ち込む井上に更なる試練が襲いかかる?


帰宅してシャワーを浴びると、少しだけ気分が上向き、今日起きた出来事を一つ一つ整理し始めた。

井上だって、ハナのその言動から、男の一人や二人はいるだろうと覚悟はしていたのだ。

半年くらいアタックし続けても「暖簾に腕押し」状態だったし、最近はさらにつれない態度だった。

それでもハナから食事に誘われることも時折(気まぐれに)あった。彼女の様々なわがままには閉口したが、自分に心を開いてくれている証拠だと思っていたのだ。

それに慎重派の井上は、たった一つだけ気をつけていたことがあった。

それは、一回りの歳の差があるからと言って彼女を甘やかすことなく、一人の女性として対等に扱う、ということだ。

食事代はいつも井上が出していたが、彼女に高価なプレゼントをあげたことはなかったし、自分のことを「おじさん」と言ったこともない。彼女はいくぶん世間知らずなところが多かったが、年齢について触れることはなかった。

つまり、井上はハナの前では常に、「一人の男」として接して続けてきたのだ。

彼女がどう思っていたかは知らないが、出会った当初は井上を「おじさん」だと言ってからかっていたが、最近は一切口にしなくなった。

だから他の男に負けてしまっても、井上に悔いはないのだ。

そんなことを考えていたら、いつの間にか眠りに落ちてしまっていた。




翌日の土曜日、13時。

携帯がけたたましく鳴り、井上は目を覚ました。母親の智子からだった。

「…何?どうしたの?」

智子からの連絡は月に1、2度ある。

いつも、30年近く通っている日本舞踊の話や、庭でやっている家庭菜園で何ができた、とかそんなとりとめのない話を聞かされるのだ。

今日も、キッチンのリフォームをしようか悩んでいる、という話を延々としたあとで、それと同じ調子でこう言ったのだ。

「実は、お父さんが先月入院してね」

その言葉に井上は驚きを隠せなかった。70歳になった父親は、井上の記憶の限り、ほとんど病院に世話になったことがない。

「…え?なんでだよ?」

母親の説明によると、家の近くでつまずいて脳しんとうを起こし、その後念のため検査入院したらしい。

しかし井上が心配だったのは、脳しんとうそのものよりも、それを機に父親がすっかり弱気になって家に引きこもっているということだった。

「それ、早く言ってくれよ。今日仕事終わらせて夜行くから」

母親の電話を切ったあと、井上は思わずハナに電話していた。しかし10回ほどコールしても、全く出る気配はない。

ハナと話すのは諦めて、仕事をしようとパソコンを開く。

昼まで寝ても疲れは抜けておらず、作りかけの企画書を仕上げようとしても、集中力に欠けた。

寝つきが良くて体力の回復も早く、24時間いつでも仕事できるという自負がある井上にとって、これは予想外の出来事だった。仕事は井上の精神安定剤であり、心の拠り所なのだ。

―疲れてるな。

井上は、ベッドに戻った。

こういうときの特効薬は、何も考えないようにすることと、できるだけ体を動かすことだ。

―久しぶりに、ジムでも行こうか。

そう思いながら、またいつの間にかうとうとと寝てしまっていた。


一方のハナは、久しぶりの休日を楽しんでいる様子?


井上と会ったあくる日、ハナは富ヶ谷にある成城石井で食材を見つくろっていた。今日は渉君も一緒だ。

休日の昼下がり、渉君とこうやって買い物に出かけるなんて、いつぶりのことだろう。願ってもみない渉君との時間が当たり前にように流れているのは、何とも不思議な気分だった。




「…重いねぇ」

今日の夜は久しぶりに自炊しようと思って、食材をたっぷり買い込んだ。

トマトとモッツァレラチーズ、ナスとひき肉、ピーマン、みょうがとオクラ、絹ごし豆腐、コリアンダー、ワイン2本とミネタルウォーター、あと渉君が好きなチョコチップクッキー。

今日は渉君が好きなトマトのカプレーゼと、夏野菜のカレー、それに冷奴を作る予定だ。好物ばかり揃えようとしたら、脈絡がない献立になってしまった。

「重いねぇ」と言ったあとの沈黙に、やり場のない気持ちになった。

渉君といない寂しさは、これまで全て井上が埋めてくれていた。

ハナの言うことに、井上は律義にいつも反応する。

「重い」と言ったら、ハナの手から全て荷物を奪い、
「寒い」と言ったら、自分の上着を脱いで羽織らせ、
「暑い」と言ったら、どうしようもない、と困り顔をした。

―ハナは大体、3文字で会話するよなぁ。

そう言いながら苦笑していた井上のことを、思い出す。

「重い」といっても2つの荷物のうち、重い方は渉君が持っているのだから、我慢しなくてはならない。

あのまま井上と付き合っていたら、きっと自分は歯止めがきかなくなっていただろうし、これで良かったのだ。

しかしわがままを聞いてくれはしたけれど、井上はいつもハナと対等でいようとした。

「港区おじさん」のように、女性を甘やかす男の気持ちは分からない、と言っていたのを一度だけ聞いたことがある。そんな鷹揚な男を演じて自分を面白がれるほど、井上は図太くないのだ。

それがハナにとっては新鮮で、いじらしくもあった。

「…どうしたの?」

井上のことを考えていたら笑っていたようで、渉君が不思議そうにこちらを見つめてくる。

「……何でもないの」

そのとき、ハナのスマートフォンは振動し続けていたが、それには気づかず、家に着いていそいそと料理の支度をし始めた。

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すれ違う二人。さらなる不幸が重なる?