神野プロジェクト Road to 2020(2)

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 神野大地がトレーニングウエアに着替えてトレーニングルームに降りてきた。

「今日は5回目のレイヤー、1クールの最後になります」
 
 中野ジェームズ修一がそう声をかけると、神野は苦笑いを浮かべた。

「今日、電車でレイヤーのことを一旦忘れて寝ようとしたんですけど、なんかソワソワして寝られなくて……。レイヤーの時は、ここに来るまでに覚悟が必要なんですよ」
 
 レイヤーとは、神野が中野と取り組んでいる3つのトレーニング種目(他の2つは瞬発系トレーニング、コアループトレーニング)の中のひとつで、筋持久力を高め、マラソンを走る”足を作る”のが目的の種目だ。3つのうちで最もハードなトレーニングで、過去には中野が指導したアスリートが気を失いかけたことがあるほどだという。それだけに神野が口にした「覚悟」が必要なのだ。


トレーニングに励む神野大地。支えるのは中野ジェームズ修一氏
「今日は1クール目なのでレイヤーでABCDEの5種目をスローでやっていきます。これはゆっくりやる方がきついんです。早くやると反動が出てきてしまうけど、スローだと強度が増します。過去4回は順調でしたけど、今回、私がサポートする割合が多かったり、『上げなさい』と言っても足を上げることができないのであれば、もうちょっと基盤を作らないといけない。今日、その見極めをしたいと思います」

 中野は、そう言うとトレーニングを始めた。トレーニングルームにピンと緊張した空気が張りつめる。


 まずは、ウォーキングランジ(※1)から始まった。続いて、ステップ台に右足だけを乗せ、左足を後ろに投げてつま先を中野にサポートしてもらう。ゆっくりと右足を曲げていき、両手をステップ台につけて、右足を伸ばていく。回数は20回ほどで、これがトレーニングAになる。
※1 ハムストリグス(太もも)、腸腰筋、大臀筋(お尻周り)などを鍛える運動。直立姿勢から片足を大きく踏み出して、後ろ脚のひざを地面につけるように腰を落とし、立ち上がりながら、後ろ脚を踏み出す。これを繰り返す。

 トレーニングBは、ステップ台に右足だけで立ち、右手にダンベル。左手は腰の後ろに置き、左足はA同様に後ろに投げて、つま先を中野に支えてもらう。右足1本の状態でダンベルを下から上に持ち上げてくるのだ。こうしたトレーニングがEまである。


ホワイトボードに書かれた「レイヤー」トレーニングの図表。ブロックがどんどん積み重なる。 最初は、ウォーキングランジを左右両足こなして1セット。

 次は、それにAを加えてやって1セット。続いてウォーキングランジ、AにBを加えて1セット。こうしてウォーキングランジにトレーニングA、BにCを加えていくのでセットの山が右肩上がりで大きくなり、最後はEを加えたセットで終わる。

 ちなみに次のセットに移るまでのインターバルは30秒。あっという間だが、そこで給水し、汗を拭う。

 トレーニングDまであるセットでは、もうBぐらいで足が震え、呻き声が漏れる。汗が滴り落ち、10回ぐらいでダンベルが上がらなくなる。

「背筋を使って上げる!!」

 中野の声が飛ぶ。神野は「あぁー」と苦しそうな声を吐き、震えながら右手を上げていく。ラストのEまであるセット終了まで約1時間10分。


 シンプルだがスローな動きゆえに恐ろしく負荷がかかる。神野が”覚悟”してくるという理由がよくわかった。

 中野が言う。

「神野はつらかったと思います。あんな声を出して苦しむのはなかなかないのでね。でも、これを続けていかないといけない。今日のトレーニングはハーフマラソンを走ったぐらいの負荷がかかっているんですが、それを毎週やっていけるようにしたいんです」

 毎週ハーフマラソン程度の負荷をかける? 驚いたが、それには理由があるのだという。

「本当は川内(優輝)選手のように毎週どこかの大会で走るぐらいにならないと、マラソンは強くならないと私は思っています。神野も同じようにさせたいけど、今それをすると壊れてしまう。神野は川内選手よりも身長も体重も少ないし、骨格が太いわけでもない。しかも筋肉がつきにくい体質だからです。毎週、距離を踏めないので今回のようにハーフマラソンを全力で走ったぐらいの負荷がかかるトレーニングをしていく必要があるんです。

 それを重ねて、次は毎週フルマラソンを走るぐらいのトレーニングをして、最後は毎週50kmを走るぐらいの負荷のかかるトレーニングをしていく。そうしてフルマラソンを走り、さらに20kmぐらい走れる体にできれば、3年後にケニアをはじめ外国人勢に対して仕掛けられて、メダルを獲ることが可能になってきます」

 この厳しいトレーニングは、まだ最初の山の1クールが終わったに過ぎない。中野は2020年までに3つの山をクリアさせたいというが、現在はいったい、どのレベルなのだろうか。


「まだ、最初の山をクリアするクの字ぐらいで30%程度です。12月の福岡国際マラソンまでには、2つ目の山に入れるようにしたいなと思っていますが、それはレイヤーとともにポイント練習がどのくらい積めるかにもよります。

 ただ、レイヤーをやって疲労感がある中でも練習の質を下げないようにと、コニカミノルタの磯松(大輔)監督がしっかりと練習を考えてくださっているので、すごくありがたいですね」

 まだ、1ヵ月程度しかレイヤーをしていないが、効果は上々だという。神野は3月、陸連のマラソン強化合宿中に故障し、トラックに戻ってきたのが5月のGW明けだった。走れなかった分、コアループトレーニングをしっかりこなし、レイヤーも順調にこなしてきた。先日、いい感じで走れたのでトラックを走る動画を中野に送った。

 中野はそれを見て驚いたという。

「ケニアの選手と同じぐらい足が上がっていい走りができていたんです。レイヤーの成果が出てきているなって思いましたね」

 神野も以前とは違う走りを実感している。

「ある時、コーチに『今、走る時、何か意識している?』って聞かれたんです。その時、レイヤーで臀(でん)筋とハムストリングスを鍛えていて、ぐっと前にいくのを意識していますって言ったんです。そうしたらコーチに『そうか。前よりもいい走りだね』と言われて。自分も動画を見ていいなと思ったので、レイヤー効果を実感しています」

 もう少し具体的にいうと何が違うのか。


「加速感ですね。スピード練習で臀筋とハムストリングスを使って蹴った時、グインって加速していけるんで、その感覚というのは今までになかったものです」

 神野は嬉しそうにそう言った。

 ケガから明けた後は順調にトレーニングを消化できている。ただ、そういう時こそ故障してしまうケースが多々ある。今、故障すると12月の福岡国際を走ることが難しくなってしまうので、ケガ予防のためにセルフケアする時間を以前よりも多く取るようにした。

「前は最初にストレッチポールを使って、体全体をコンプレッションしてからストレッチをしていたんですけど、今はその前にオイルマッサージを取り入れています。ストレッチだけだと、シンスプリント(※2)やアキレス腱とかに張りが残る感じがして……。でも、オイルをやると痛みが出てこないんです。だから今はオイルを使って体全体をほぐしてからコンプレッションをしてストレッチをしています」
※2 下腿の内側に出る慢性的な痛み。走ることの多い競技の選手がよく発症する。

 セルフケアはテレビを流しながら、リラックスした状態でしているという。その時間は、前は30分ほどだったが、今は40分になった。21時20分にケアを始めて、22時に終わり、22時30分に就寝する。7時間はしっかりと睡眠をとるようにしている。規則正しい生活を送り、そのリズムを大事にしている。また、練習後のアイシング、交代浴はもちろん、マッサージも週2回程度、受けている。

「トレーニングの強度が上がっていく中、セルフケアをしっかりやっていくことが大事。疲れを残さないことが次のいいトレーニングにつながるので、(入念なケア)いいことだと思います」


 中野は、それがトレーニングを順調にこなすことができている一因だという。

 また、神野は大学を卒業してから始めたことがある。

「中野さんのトレーニングのデータファイルを作っています。グラビティ、レイヤー、瞬発、ループの各トレーニングを分け、会社でエクセルに中野さんに言われた注意事項とか、トレーニングメニューや感想を書き残しています。たとえば、レイヤーで第1回目は、こういうトレーニングをこういう意味で行ない、この部分にこのくらいの筋肉痛が残ったとか。

 それを時々、見返すんです。この部分を意識して走らないといけないんだったとか、1回目のトレーニングはキツかったなぁとか(笑)。こういうのを残していくと自分の体の変化を感じられますし、引退した時に自分の財産になると思うんで」

 最近は、項目がもうひとつ増えた。「瀬古語録」だ。

 3月の合宿で瀬古利彦・長距離マラソン強化戦略プロジェクトリーダーといろんなシーンで話をして、その際に心に刺さった言葉を携帯に残しておいた。それをトレーニング記録のファイルのように残している。


 今の状態を維持していければ6月末の日本選手権の1万mに出場し、7月13日にはホクレン・ディスタンスチャレンジ網走大会で1万mを走る予定だ。

「まだ、マラソン練習をする感じではなく、日本選手権とホクレンで昨年と同じぐらいのレベルの状態にもっていけたらと思っています。それからマラソンの準備をするという感じですね」

 そう語る神野の表情は明るい。ようやくコンディションが戻ってきた感覚を掴めているのだろう。それだけに全日本選手権が楽しみだ。もちろん、今のトレーニングがすぐに結果に結びつくかどうかはわからない。中野も「全日本でいきなり勝てるまでには、まだいっていない」と慎重だ。

 だが、神野の走りにはきっと何かしらの進化が見られるはずだ。

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