首相・安倍晋三は慎重に言葉を選んでいた。

「総裁として、9条に自衛隊の存在を明記するということを3日に提言し、自民党に検討するよう指示しました」

 5月22日昼、首相官邸。昼食を共にしながら公明党代表の山口那津男に改憲案を説明する安倍は、あえて自らの肩書きを「総裁として」と表現し、党に検討を指示したと明らかにする一方、その後のスケジュールには一切触れなかった。

 9条そのものに手を付ける改正には本来否定的で、意見集約ができていない公明党を刺激しないよう配慮したのだ。山口も呼応するように「承りました」と静観姿勢を示す一方、「安全保障法制を成立させる過程で、憲法についても十分な議論をしました。その時の考え方がベースになります」と、自民党の議論が従来の幅を逸脱しないよう釘を刺すことを忘れなかった。安倍も「国会でもそう答弁しています」と返す。与党として検討作業を始めることにお墨付きが与えられたと安倍は判断した。この時、すでに安倍は年内の取りまとめを表明、自民党の憲法改正推進本部の態勢を拡充させる方針も固めていた。用意周到とも言える段取りを踏む安倍の視線の先には、来年9月の自民党総裁選がある。

 安倍は5月半ば、親しい政界関係者に「憲法審査会で民進党を含む合意形成を待っていたらいつまでもできないことがこの3年でよく分かった。発議は3党でやるしかない」と明かしている。その目論見通りに進めば、来年年明けの通常国会で衆参両院の憲法審査会に自衛隊の9条への明記と教育無償化を軸とした自民党改憲案を提示、公明党だけでなく日本維新の会の協力も得て議論を進めることになる。

 そうなれば、9月までには憲法審査会での議論はかなり煮詰まっていることになる。安倍の対抗馬として立候補するには当然、独自性のある改憲案が必要となるが、それはおのずと「今更憲法審査会の議論を無にするのか」との批判を受ける。安倍と同様の案であれば、改憲が最大の争点となる総裁選になぜわざわざ立候補したのかと疑問を呈されることになる。

 安倍にとって「改憲」は究極の目標であると同時に、総裁選で3選を勝ち得るための絶好の武器でもあるのだ。


安倍晋三 ©三宅史郎/文藝春秋

 第2次政権発足直後の安倍は、改憲手続きを定めた96条の改正を提起して強い批判を受けた。以来、具体的な改憲項目を自ら提唱することを避けてきた。それゆえ、長年の持論であった集団的自衛権の行使容認の閣議決定と、それを受けた安全保障関連法の成立にがむしゃらに突き進んだ。

 だが、昨夏の参院選で大勝、衆参両院で改憲勢力が3分の2を占めるに至り、今年3月には総裁任期も「3期9年」に延長。改憲発議に必要な勢力と時間を手に入れたことで、再び、祖父の元首相・岸信介以来の悲願である9条改正への野望が頭をもたげてきた。改憲に悲観的だった官房長官・菅義偉も参院選後、一転して「総理に改憲をやらせたい」と前向きになった。

 しかし、9条の全面改正となると公明党の賛成を得るのは間違いなく不可能だ。創価学会名誉会長の池田大作が憲法9条の重要性に度々言及してきたことから、特に学会婦人部には、「先生は、9条は宝だとお話しになっている。9条だけは一切、手を触れるべきではない」との意見が根強い。

 そんな中、安倍の背中を押したのは、これまで封印されてきたある公明党幹部の言葉だった。

安倍が思案し続けた言葉

 3年前のある日、首相官邸で安倍と2人だけで意見交換に臨んでいた国交相・太田昭宏が、こう言ったのだ。

「総理は憲法9条を改正したいと考えているのでしょうが、公明党は9条の1項、2項ともに全く手を付けず、別途、自衛隊の存在を明記するのであれば容認できます。でも、そんな案では総理はダメですよね」

 思わぬ発言に安倍は「そんなことはありません。現実に改正できなければ意味がありませんから」と応じた。ただ、太田の提案は「戦力の不保持」を定めた9条2項を改正すべきという安倍の有力支持団体である右派組織「日本会議」の主張や、「国防軍創設」を明記した自民党憲法改正草案を棚上げすることにもなる。何より自分が長年思い描いてきた在り方ではない。

 理想を追うべきか、現実を優先すべきか――安倍はあの日から、太田の言葉を頭の片隅で思案し続けてきた。

 昨夏の参院選後、安倍は周囲に「9条明記なら公明党は受け入れられるんだよね」と何度も口に出すようになった。徐々に腹を固めた安倍は、表明のタイミングを憲法施行70年の節目に当たる憲法記念日と見定めてきた。そして、その方法の1つを日本会議の面々を中心とする改憲派団体の集会でのビデオメッセージとした。これによって、日本会議やその支持者らにとっては「満額回答」とは言えない改憲案を広く了承してもらう形を狙った。

 果たしてその会場では、筋金入りの保守派であるジャーナリストの櫻井よしこが、「これほど明確に、具体的に憲法改正への思いを語ってくれたことに勇気づけられる」と全面的に安倍提案に賛意を示し、会場からも「そうだ」と賛同の声が上がった。安倍が直接、間接に根回ししていたことを物語る。

 この集会に公明党は、党憲法調査会事務局長の遠山清彦を派遣したが、実は今年3月、櫻井から、一連の改憲派集会への出席を要請する手紙が代表の山口那津男宛に届いていた。櫻井が、安倍の現実的改憲案を支持し、公明党を取り込もうと水面下で安倍と連携していたのだ。

過度の集中と忖度

 思わぬ副産物もあった。安倍の表明直後に発売された週刊東洋経済で、民進党の元外相・前原誠司がインタビューに答えて「9条第3項、あるいは10条といった形で、自衛隊の存在を明記してはどうかと考えている」と発言、民進党内に「前原さんは安倍首相と気脈を通じているのではないか」との疑心暗鬼を生じさせることになったのだ。

 改憲に向けた工程表を示し、政権運営の主導権を握るという安倍のシナリオは順調に進むかに見えた。だが3週間後、新たな問題が火を噴いた。

「『総理のご意向』などと記された一連の文書は、私の手元にあるものとまったく同じ。間違いなく本物です」「行政が歪められようとした実態がそこには記されているのです」

 5月25日、朝日新聞とTBS、週刊文春で、文部科学省の前事務次官・前川喜平のインタビューが一斉に報じられ、その8日前に朝日が報じた、理事長が安倍夫妻と親しい関係にある学校法人加計学園の獣医学部新設を巡る記録文書を、本物と断定したのだ。

 加計学園は、政府の国家戦略特区制度を活用し、愛媛県今治市に獣医学部新設を計画。今年、事業主体に認定されている。文書は文科省が特区を担当する内閣府とのやりとりを記録したものとされ、内閣府側の発言として「官邸の最高レベルが言っている」「総理のご意向だ」などと記載されていた。

 告発者の前川は、そもそも文科省の天下り問題の対応を巡って官房長官・菅と対立、今年1月に就任後7カ月で次官を辞任している。菅ら官邸サイドは、この文書が前川の辞任前後から出回っていることをつかみ、出元は彼しかいないと睨んでいた。さらに事実関係の一部に間違いが見られた。

 このため、文書の存在を明らかにした17日の朝日の報道直後に菅は記者会見で「出所も明確でない怪文書じゃないか」と突き放し、その後の文科省の調査でも「存在を確認できなかった」と結論付けられていた。

 一報から8日後の記者会見に至るまで、前川を巡っては熾烈な情報戦が繰り広げられた。5月22日付け読売朝刊が彼の現職時代の出会い系バー通いを報道。「口封じを狙った官邸のリーク」とも囁かれたが、当の前川は意に介さず、会見でもその事実を認めた。

 直前まで安倍政権を揺るがしていた学校法人森友学園の問題は、大阪地検特捜部が補助金適正化法違反や詐欺の容疑で捜査を進めており、「今後は司法の場で真相究明がなされる」との理屈で幕引きが図られつつあった。

 その矢先の「前次官の乱」。相次ぐ身内からの問題噴出は、権力の過度の集中と忖度が横行する「安倍一強」の歪みと弱点を浮き彫りにした。

小池が“新たな一手”――「敵の敵は味方」

 仮に今後、森友の乱同様に前次官の乱を鎮圧できたとしても、その先には乗り越えなければならないハードルがもう1つある。7月2日投開票の東京都議選だ。都知事の小池百合子率いる都民ファーストの会は一時の勢いを失っているとはいえ、敵対する自民党都連が回復しているわけではない。そんな中で第1党、さらには過半数を狙う小池が5月10日、新たな一手を打った。

「分煙では不十分で、屋内禁煙を原則としていく。基本的には、厚生労働省の案に近い」

 2020年東京五輪・パラリンピックに向けた受動喫煙対策に関して厚労相・塩崎恭久と自民党反対派の攻防が続く最中、そのギャップに目を付けた発言だった。さらに小池は25日、公約に掲げた受動喫煙防止対策の詳細を発表。「子どもをたばこの煙から守る」と宣言し、家庭内や公園、子供が同乗する車中まで喫煙を制限し、罰則も検討するという。小池は「国の法整備を見守っていても時間が過ぎていくばかり」と国をあてこすった。


小池百合子 ©釜谷洋史/文藝春秋

 背景には複雑な構図がある。小池と塩崎は第1次安倍政権時、当時の守屋武昌防衛事務次官の後継人事を巡って鋭く対立した。首相だった安倍と官房長官だった塩崎の了解を得ないまま、防衛相だった小池が独断で守屋の交代と後継を固めてメディアにリークしたことが引き金だった。以来「犬猿の仲」の2人だが、受動喫煙対策では「敵の敵は味方」の図式となった。というのも、塩崎が4月、世界保健機構のアサモア・バー事務局次長から屋内禁煙の徹底を求める書簡を受け取った際、このコピーを小池に送付したからだ。自民党内で屋内禁煙に反対論が根強い状況を踏まえ、開催地トップの小池から狼煙を上げてもらう暗黙の期待が込められていた。それは小池にとっても渡りに船だったに違いない。自民党反対派と同じく、たばこ販売店や飲食業界の要望を背にして屋内禁煙に否定的な自民党都連との対立構図を演出することは「小池劇場」作りにもってこいだからだ。「国際的に日本が恥をかくようなことは避けたいよね」。安倍は受動喫煙対策を巡り、周辺にこう漏らした。塩崎の立場に理解を示す発言だが、積極的に介入する動きは見せなかった。国際標準で見れば塩崎は正論かもしれないが、自民党の支持母体にも配慮する必要がある。ただその片言隻句を捉えられれば、小池との対立軸を浮かび上がらせかねないと警戒したのだ。

 結局、官邸と幹事長・二階俊博ら自民党執行部は都連会長の下村博文に「都議選対策を最優先して」対応するよう内々に指示せざるを得なかった。

 都連は「原則屋内全面禁煙とする都独自の受動喫煙防止条例を制定する」との公約を発表。罰則規定も設けるという内容は、事実上、小池と足並みをそろえる格好で、いわば争点潰しだ。背後には健康と経済を巡る政策論議を後回しにし、選挙だけを見て動かざるを得ないほど追い詰められている自民党都連の惨状と、安倍政権の脆弱さが見え隠れする。

 さらに小池側は29日、新たな矢を放った。加計学園問題への政府の対応を批判して盟友の衆院議員・若狭勝が党本部に進退伺を提出。若狭は都民ファーストを応援する方針で、新たな争点作りを狙った作戦だった。

 安倍が理想を棚上げしてまで目指す9条改正にたどり着くことができるか否か、予断を許さない。

(文中敬称略)

(赤坂太郎)