子を産み、子を育て、家を守る。

昔からあるべき女性の姿とされてきた、“良妻賢母”。

しかしその価値観は、現代においてはもう古い。

結婚して子どもを産んでも、男性と同等に働く女性が増えた今こそ、良妻賢母の定義を見直す時だ。

家庭も、仕事も、子育ても、完璧を目指すことで苦しむ東京マザーたちが模索する、“現代の良妻賢母”とは、果たしてどんな姿だろうか。

レコード会社で働く佳乃は出産後、時短勤務で復職した。夫の紀之は家事を手伝ってはくれるものの、仕事と子育てに追われる佳乃は、思い描いていた良妻賢母になれない自分のことで苦しんでいた。




「希ちゃん、プロポーズされたの?おめでとう!」

出勤途中に『ファクトリー』で買ってきたレーズンパンを食べながら、佳乃は少女のようにはしゃいだ。

佳乃はパンを、希は近くで買ってきたロコモコ丼のお弁当を食べながら、社内のミーティングスペースで慌ただしくランチを食べている時だ。

「ありがとうございます。でも私、条件をだしました」

そう言って、希はプロポーズされた当日のことを話してくれた。

「確かに、男性の家事能力は大事よね。希ちゃん、しっかりしてるわね」

佳乃が言うと、希はなぜか少しだけ気まずそうに視線を落とし、口元だけで笑った。

「今週、佳乃さんは夫婦デートなんですよね?」

それ以上聞かれたくないのか、希は話題を変えてきた。週末は広島から母が来るのだと、以前言っていたことを覚えてくれていたようだ。

「そうなの。2〜3時間しか預けられないけど、久しぶりに夫と2人で銀座にでも行こうと思ってるわ」

「お子さんが生まれてもそんなに仲良しなんて、羨ましいです〜!」

希にそう言われて、悪い気分ではなかった。だが翌日佳乃は、社内の仲が良い同僚から嫌な話を聞くことになった。

「佳乃って、ほんと心が広いわよね」

そう言われて、最初は何の事だかわからなかった。だが、詳しく話を聞いて、佳乃は言葉を失った。


紀之が隠していたある出来事を知ってしまい、佳乃の怒りが爆発する。


その日の夜、自宅であかりを寝かしつけた後、リビングでビールを飲んでいる紀之に切り出した。

「ねえ。この前、真夜中に帰って来た日。あの時あなた、ゆり子さんと2人で飲んでたの?」

言い終えると、それまで騒がしいと思っていた室内が、急にしんと静かになった。

テレビはまだついていて、バラエティ番組で最近よく見る女性タレントが、上から目線でコメントを言っている。

そのコメントが終わると、大きな笑い声がテレビから聞こえてきた。

それでもなぜか、部屋の中はしんと静かに感じられた。

「あ、うん。そうなんだよ、ちょっと相談があるとか言われて。あいつ、お酒好きだからさ、飲みだすと止まらないみたいで」

「あいつ?」

「いや、あの、ゆり子さん」

慌ててそう言い直す紀之の姿は、とても滑稽に見えた。

佳乃と出会う前、紀之がゆり子のことを好きだったという話は、聞いたことがある。

2人の関係を気にしていた時期もあったが、紀之はいつだって誠実で真剣に佳乃のことを求めてくれていた。だからゆり子とのことを問い質すなんて無粋だと思っていた。

「私が、育児と家事と仕事でいっぱいいっぱいになってるの、知ってるよね?なのに、どうしてそんなことができるの?!」

今さら2人の関係を問い質すなんて、できない。そんな惨めなことは、絶対にしたくない。

母親となった自分に、紀之はもう、女としての魅力を感じられなくなったのだろうか。家事をしない彼を責める自分に、嫌気がさしたのだろうか。

頭の中では、嫌な想像ばかりが膨らむ。

どうしてだろう。紀之も一緒に「親」になったはずなのに、紀之は何も変わっていない。女である自分だけがどんどん立場が変わっている気がする。

なぜ自分だけが、口うるさい女のようになるのだろうか。

紀之だって、あかりの親になったのだから、同じ責任を持っているはずなのに、子どもに関する責任は、母親の方にばかり問われている気がしてしまう。

夫に求められて、可憐さも美しさも差し出して「親」になったのに、夫はそんな妻を、時に拒絶する。




涙がぽろぽろ溢れてきた。

熱い涙が佳乃の頬に筋をつくり、胸元にぽたりぽたりと落ちていく。薄いピンクのブラウスは、涙が落ちた場所だけ色を変える。

「佳乃、変な誤解はしないでほしいんだ。たしかに2人で飲みに行って、軽率だったとは思うけど、本当に仕事の相談をされただけだし、あんなに遅くなる予定でもなかったんだ」

紀之の声よりも、テレビから聞こえる女性タレントの声の方が、佳乃の頭にはするりと入ってくる。

「なあ、佳乃」

紀之に、二の腕をグッと掴まれた。その瞬間、佳乃は声を荒げた。


予定通り訪れた母に、佳乃が悩みを打ち明ける。


「さわらないで!!」

驚いた紀之は、反射的に佳乃から手を離し、そのままの姿勢で固まった。

部屋の中には沈黙が流れる。

紀之は佳乃を見つめ、佳乃はテーブルに置いた自分の指先をぼんやり眺めていた。

寝室から聞こえてきたあかりの泣き声で、佳乃ははっと我に返った。何かを察したのだろうか。その泣き声はいつもよりも激しい。

佳乃は、力なく椅子から立ち上がる。紀之がそれを支えようと手を伸ばしてくるが、気付かないフリをして寝室へ向かった。

「今夜は、悪いけどソファで寝てくれる?」

それだけ言い残して、涙も拭かずに寝室へ向かう。紀之と別の部屋で寝るのは、結婚して初めてのことだ。




抱き上げたあかりの背中はとても熱かった。薄暗い部屋で、一生懸命泣くあかりの背中をさすりながら、佳乃も一緒に泣いた。

ひっく、ひっく、としゃくりあげながら、あかりをぎゅっと抱きしめる。泣いているせいで、大好きなあかりの匂いは感じられない。

もう何のために、何を頑張ればいいのかも、わからなくなってしまった。



翌日、予定通り母親が家にやって来た。本当は、母親にあかりを預けて紀之と出かけるはずだったが、そんな気分には到底なれない。

「ちょっと体調が悪いから、私は寝てる」

そう母親に伝えた。紀之はただ気まずそうに母親に愛想笑いを浮かべている。

「あら、そうなの。じゃあ寝てなさい。佳乃ったら本当にタイミングが悪いんだから。ごめんなさいね〜、紀之さん」

あかりを抱いたまま、母親は明るい声で言った。

「私ったら、落ち着いたら急にお腹が減ってきちゃったわ。紀之さん、申し訳ないんだけどサンドイッチでも買ってきてくれないかしら」

そう言って、半ば強制的に紀之をコンビニへと向かわせた。

玄関のドアがバタリと閉まる音を聞くと、母は佳乃の方に振り返り、「何があったのよ」と優しく微笑んだ。母の腕の中では、あかりがすやすや眠っている。その寝顔は、本当に天使のようにかわいい。

自分の母と自分の娘。二人の顔を見たら、勝手に涙があふれてきた。

「私、お母さんみたいな母親に、なれない……疲れちゃった……」

何度も引っ掛かりながら言えた言葉はそれだった。

専業主婦の母親と、佳乃はいつも一緒にいた。幼稚園から帰っても、小学校から帰っても、家に帰るといつも母は台所にいて、美味しそうなご飯の匂いを家中に漂わせていた。

家の中はいつも綺麗に整頓され、両親はいつも笑顔だった。

「そんなの、佳乃が覚えてないだけよ。私だって必死だったわよ。お父さんは仕事人間で、子育てには一切協力してくれなかったし」

あかりのまるい頭を撫でながら、母は続けた。

「でも、佳乃は私と違って仕事も続けてるんだから、本当に大変よね。だから、なんでも完璧にやろうなんて、思わなくていいのよ。今は色んなサービスもあるんでしょう?そういうのを上手に使えばいいのよ。ちょっとでも余裕を作って、あかりちゃんと笑顔で過ごす方が大切よ。子どもはすぐ大きくなっちゃうんだから」

囁くような母の優しい声を聞いて、佳乃の涙はまたあふれてきた。

しかし佳乃の頭の中には、「離婚」という2文字が浮かんでいた。

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罪悪感にさいなまれる紀之。同期に相談すると、ある助言を受ける。