ラモス瑠偉【写真:Getty Images】

写真拡大

13日にW杯最終予選、ラモスの胸を締め付ける19年前のイラク戦の“苦い記憶”

「死ぬ前に神様に聞いてみたいよ。あれはなんだったの?」――ラモス瑠偉

 日本代表は13日に中立地イランでロシア・ワールドカップ(W杯)アジア最終予選のイラク戦に臨む。1998年フランスW杯から6大会連続となる本戦出場に向けて、残り3試合。全10試合で争われる最終予選は佳境を迎えようとしているが、日本にとってイラクは、土壇場でW杯初出場を阻まれた苦い記憶のある相手だ。93年10月28日、いわゆる「ドーハの悲劇」である。

 94年アメリカW杯アジア最終予選は、カタールの首都ドーハに6か国が集まり、各国総当たりで争われた。前年のアジアカップを制した日本では、W杯初出場への期待が高まっており、実際に日本の“10番”をつけたラモスも自信に満ちていた。

「どこかに引き分けることはあるかもしれない。でも負けることはない。絶対にW杯へ行ける」

 だが、各国の初戦を見て、ラモスは胸騒ぎを覚えた。

「イラクが強い。しかも半端ない……」

露骨に不利な判定を繰り返されたイラク…ラモスに芽生えた確信

 幸いだったのは、日本がイラクと対戦するのが最終戦だったことだ。開幕からサウジアラビア、イラン、北朝鮮と続くので「3連勝して(第4戦の)韓国に分けても、そこで決められる。たとえイラクには負けても大丈夫だ」とラモスは考えた。

 しかし、前年アジアカップ決勝の再戦となった初戦のサウジアラビアとの試合はスコアレスドロー。さらに出場停止処分で主力3人を欠いたイランには、1-2で敗れてしまった。

 後がなくなった日本は、ラモスをトップ下に配し、反撃に転じる。

「来たな! そう思った。俺に任せてくれればやってやる」

 ラモスを攻撃の起点とした日本は、北朝鮮(3-0)、韓国(1-0)を連破して息を吹き返す。4試合を終えた時点で首位に浮上し、あとは最終戦でイラクに勝てば、2位以上に与えられるW杯出場権を獲得できる状況になった。

 この予選で、イラクは露骨に不利な判定を繰り返されていた。W杯開催国はアメリカ。91年1月から2月に起きた湾岸戦争の当事国を迎え入れるわけにいかない――。

 だから1-1で迎えたイラク戦の後半に日本が奪った勝ち越しゴールも、ラモスには確信があった。

囁いた主審「これで終わるよ」―しかし、襲い掛かったW杯予選に潜む魔物

「ゴン(中山雅史)がオフサイドラインぎりぎりにいて、一度戻ってから飛び出すと思っていた。でも戻ってこない。それならイラクがオフサイドトラップをかけた瞬間にパスを出そうと思った。絶対に副審はオフサイドを取らないと思ったからね」

 案の定、副審の旗は上がらず、日本が2-1とリードしたまま、時計の針は後半45分を回る。そしてイラクが、カウンターからCKを取った。

 主審は囁く。

「これで終わるよ」

 ところが、イラクは時間がないのに意表を突くショートコーナーに出て、オムラムの同点ヘッドが放物線を描きネットを揺するのだ。

「主審はCKの前に終了の笛を吹いても良かった。誰も文句なんて言わない。途中で物を投げ込み、試合を中断させたのもイラクのサポーターだった。なのに、どうして? それまで主審、副審、FIFA、みんなずっとイラクを苛めてきたんだ。不思議だよ、逆に主審に聞いてみたいよ」

 試合は2-2の引き分けに終わり、日本のW杯初出場の夢は4年先延ばしになった。

◇加部究(かべ・きわむ)

 1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(ともにカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。

加部究●文 text by Kiwamu Kabe