ファンケル 代表取締役会長ファウンダー 池森賢二(いけもり・けんじ)1937年、三重県生まれ。59年小田原ガス入社。73年同社を退職。74年に知人とコンビニ経営をはじめるが失敗。80年無添加化粧品事業を創業。81年ファンケルを設立し、代表取締役社長に就任。2003年会長。05年名誉会長となり、経営の第一線から退く。13年1月執行役員として経営に復帰。

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■借金2400万円を2年半足らずで完済

【弘兼】お目にかかって、見た目がお若いのでびっくりしました。今年で80歳には見えません。ファンケルのサプリメントの効果でしょうか。

【池森】サプリメントの販売を1994年にはじめてからずっと飲んでいます。

【弘兼】22年間、ですか。

【池森】ええ。今は朝晩に「池森賢二用」のサプリメントを飲みます。これは東京・銀座の「健康院クリニック」という私が私財を通じて設立した予防医療を提供する施設で、血液検査などで体を調べてもらい、処方されたものです。

【弘兼】病気になる前の「未病」の方が病気を予防するために行く施設ですね。そのサプリメントをファンケルで販売するずっと前、池森さんはコンビニエンスストアを起業。

【池森】正確に言えば、コンビニではなくて、ボランタリーチェーン(VC)。70年代にアメリカでセブン−イレブンなどのチェーン店が伸びていることを知り、共同仕入れで取引品の原価を下げ、店舗に商品を供給すれば儲かると思ったのです。

【弘兼】しかし、上手くいかなかった。

【池森】友人たちとはじめたのですが、今振り返れば「船頭多くして船山に上る」、先導者が多すぎてまとまりがつかないという状態でした。

【弘兼】そして池森さんは個人保証した2400万円の借金を背負うことになってしまいます。それを2年半足らずで完済されたとか。

【池森】東京・江東区でクリーニング屋を開業していた兄に借金の相談をしました。そうしたら、「(クリーニング屋の)外交をやれ」と。

【弘兼】クリーニングの外交とはお客さんの家を回って注文を取っていくことですね。

【池森】はい。外交の仕事をはじめて、私は独身や若い夫婦の多い、ある団地に目をつけました。そこの住人は「クリーニングに出すのはいいが、仕事帰りに引き取ろうと思っても店が閉まっていて困る」と言うので、私は夕方4時から夜中2時ぐらいまで団地を回ることにしました。

【弘兼】一軒一軒に聞いて回るのは大変な作業です。それに、いつもクリーニングに出す洗濯物があるわけではありませんよね。

【池森】そこで、洗濯物があるときはドアノブに白い札をぶら下げてもらうようにしました。団地を回るのは週2回。水曜日に預かった衣服を土曜日に届けて、土曜日に預かったものを水曜日に届けていました。

【弘兼】働くのは週2日だけだった?

【池森】ほかの日は、お風呂の汚れを掃除するという仕事をはじめました。風呂釜を外して、浴槽のぬめりを洗う。それで元の場所に風呂釜を戻して4500円をもらえる。ボランタリーチェーンをはじめる前、私はガス会社に勤めていたので、風呂釜を取り付けることができました。

【弘兼】借金返済のためクリーニング屋、風呂の掃除と働き詰めだった。

【池森】睡眠時間は1日4、5時間程度だったでしょうか。当時は女房の実家に居候していました。仕事が終わった夜中2時に玄関から入るわけにはいかないので、家内に頼んで裏の雨戸を開けておいてもらって出入りしていました。朝は7時、8時には出かけてしまうので、家族とはほとんど顔を合わせない。30代後半とまだ若かったし、体力があったからできた。2400万円という金額は簡単には返せません。それを2年半足らずで達成できたことは、すごい自信になりました。

■無添加化粧品を生んだ妻の“顔にブツブツ”

【弘兼】借金返済後、化粧品のビジネスをはじめます。クリーニングや風呂の掃除をしながら、新しいビジネスをずっと考えていたのですか?

【池森】ちょうど、借金を返し終えてホッとした頃、久々に女房の顔を見ると、顔にブツブツができていた。「おまえ、その顔どうしたんだ」と尋ねると、「化粧品が合わなくて」と言うのです。

【弘兼】疑問に思ったのですね。

【池森】そのとき、たまたま皮膚科の先生と化粧品の製造技術者が知り合いにいました。皮膚科の先生に聞くと、「化粧品で皮膚障害、皮膚トラブルを起こしている人がすごく多い」と言うのです。当時は「化粧品公害」と呼ばれていました。

【弘兼】その原因は……。

【池森】化粧水は非常に傷みやすいものなので、防腐剤や酸化防止剤、殺菌剤など様々な添加物が入っています。それらに対するアレルギーです。

【弘兼】本末転倒ですね。

【池森】ええ。私も「これはおかしい」と思った。しかし、化粧品業界の人たちはそう思っていなかった。必要悪だと言うのです。化粧品の製造技術者によると、開封から1カ月程度で化粧水は濁ってきて、酸の臭いがしてくる。乳液やクリームは皿に出しておくと真っ黒いカビが生える。

【弘兼】それを防止するために添加物は不可欠だと。

【池森】私は化粧品業界のことをよく知らない門外漢ですから「1カ月以内で使い切れる分量を小さな容器に入れて、売ればいいのではないか」と思いました。そうすれば肌に有害な保存料を使わなくて済む。化粧品の製造技術者に提案してみました。

【弘兼】すると、どうでしたか。

【池森】「そんなもの、女の人が買うはずがないじゃないか」と一笑されました。「化粧品は女の人に夢を売っているんだ、デザインや派手な広告には心理的な効果があるんだ」と。

【弘兼】当時、化粧品メーカーは派手に広告を打っていましたね。

【池森】そこで私は5ミリリットルずつ密閉した無添加化粧品のサンプルをつくってもらい、家内に使ってもらった。すると、アレルギー反応は起きなかった。後からわかったのですが、家内は化粧品によく使われている「パラベン」という防腐剤にアレルギー反応があった。家内の友人にも同じような症状があり、その人も使ってくれた。私がクリーニングの外交をやっていたときに、顔にブツブツができていた奥さんがいて、そういった方に話してみると、みなさん、「欲しい」と言い出した。

【弘兼】「いける」と判断したのですね。皮膚に有害なものを入れず、適正な“賞味期限”を設定して、小分けにして売る。アイデアの勝利です。

【池森】「肌の皮脂に一番近いもの、アミノ酸を中心につくってほしい」というリクエストを基に、化粧品の製造技術者が商品をつくってくれました。添加物を入れないので、その分のコストが浮き、いい材料を使えたのもよかったのでしょう。

【弘兼】運営資金はどうされました?

【池森】手元にあった21万円ではじめました。

【弘兼】21万円! 当然、広告費も使えない。頼りは口コミですね。

【池森】チラシを1枚5円で印刷してもらい、1000枚ぐらいばらまくと注文が入る。商品は自分が配達し、回収したお金を、また商品、チラシの製作費にしました。売り上げが増えていくと、商品、チラシの枚数も増えていった。チラシは一軒一軒、自分で回って配りました。電話の受付も自分でやっていました。そのうち、手が回らなくなってパートの人を雇うようになりましたが。

【弘兼】ファンケルの設立は81年。無添加化粧品事業をはじめてから1年後のことでした。その後、順調に成長していきました。そして、94年に栄養補助食品、サプリメントの販売に乗り出します。きっかけは?

【池森】私が口内炎になったとき、ある人からローヤルゼリーを勧められました。飲むと口内炎は治りましたが、えらく高価だった。生のローヤルゼリーは100ccで1万〜2万円する。2万円のものなど、桐の箱に入ってリボンが掛かっている。

【弘兼】中身よりも包装にお金が掛かっている。

■「世界をひっくり返すことが好き」

【池森】「高いから効く」と錯覚させるような、非常に不健康な世界。調べてみると、原価率が5%のものもあった。これは「おかしいじゃないか」とサプリメントに興味を持ったのです。私は基本的に世界をひっくり返すことが好きなものですから。

【弘兼】起業家魂ですね。

【池森】我々の会社は女性の肌を美しくすることを目標にしていました。ただ、本当に化粧品だけで綺麗になるのだろうかという疑問がずっとありました。つまり身体の内側からも肌を綺麗にする、「内外美容」という発想です。

【弘兼】ただ、あの頃の健康食品というのは、胡散臭いというか、あまりいいイメージがありませんでした。

【池森】そこで我々は「サプリメント」という言葉を日本ではじめて使うことにしました。元読売ジャイアンツの原辰徳さんにイメージキャラクターとなってもらい、健康食品の印象を一気に変えようと思ったのです。

【弘兼】「サプリメント」を日本で広めたのは池森さんだったのですね。

【池森】サプリメント販売には社会的意義もあると考えていました。日本の食生活は豊かになったものの、成人病が非常に多い。それにより医療費が高くなり、国の財政を圧迫している。要は足りていない栄養素があるということなので、そこを徹底的に研究しなければ、と考えたのです。我々はすでに化粧品部門で研究室を持っていました。サプリメント部門をはじめるにあたって、研究員を大々的に募集しました。我々の商品はアメリカのコピーではなく、日本発の技術なのです。現在、サプリメントの研究では我々は世界でもトップクラスだと自負しています。

【弘兼】化粧品とサプリという2本柱で、99年に東証一部に上場します。池森さんは2003年に会長、そして05年に名誉会長となって、経営の第一線から身を引きました。

【池森】創業者がいつまでも粘って会社にい続けてはいけない、格好よく退きたいという想いがありました。50歳過ぎから、「65歳で退くよ」と社員には言っていました。そして言葉通りに退きました。しかし、オーナーが会社を退くときは、次の後継者は慎重に選ばなければならない。私の場合は、後継者が社内に育っていなかったものですから、社外から来てもらった。仲がいい、親しいということで任せたのですが、次第に齟齬が生じてきた。

【弘兼】オーナー社長と後継社長とでは経営手法は当然違ってきます。

【池森】一生懸命やってくれたことは間違いありません。ただ、4年間という契約で社長をお願いしていました。そうなると、4年という任期の中で成績を上げたいと思い、5年後、10年後に目を向けなくなってしまう。製造業というのは、特に中長期計画が必要なのです。

13年3月期、ファンケルは創業以来はじめて純利益約21億円の赤字を計上。業績不振を受けて、池森は13年1月、75歳で8年ぶりに経営へと復帰。以後、売上高は15年3月期776億円から16年3月期908億円と増収。一方、15年4月から広告宣伝費を積極的に投入したことで営業利益は40億円から12億円へと7割減益した。

【弘兼】経営から退いていても業績が落ちているのは耳に入りますよね。

【池森】まずいと思ったのは、優秀な研究員が辞めはじめているというのを聞いたときでした。社員のモチベーションが落ちていたのです。

【弘兼】その原因は何でしょうか?

【池森】中長期的視野がなかったために、自然派を謳う競合品が増えたり、異業種が市場に入ってきたりする中で「無添加といえばファンケル」という優位性が揺らぎはじめていました。そこでイメージ刷新を行いました。しかし容器を白やシルバーを基調とした洗練した印象に見えるものに変えてみたものの、英語で表記された商品名が小さくて読みにくくなった。ファンケルの顧客は50代以上の人も多い。お客様が選びにくい、わかりにくく、自分たちがつくりたいものをつくってしまった。これが私が経営に戻ろうと決心するきっかけになりました。

【弘兼】1度身を引いてしまったので、戻りにくくはありませんでしたか?

【池森】やはり、みっともないと思いましたよ。経営を後任者に託した身としては、見ているしかないのですが、会社が潰れてしまうのはもったいないと悶々としていました。12年暮れに当時の社長から私に戻ってほしいという要請があり、自分がやるしかないと決断したのです。

■次世代にバトンを渡すための大胆な改革

【弘兼】復帰して、どういう手を打ったのでしょうか?

【池森】まずは採算が取れないエステ事業などの赤字部門を撤退。創業者しかできない大胆さで進めました。また、従業員の理念浸透のために教育機関を設立しました。そして研究室を500坪増築しました。「うちは研究を大切にする」という意思表示でもありました。それで、研究員が辞めていく流れが止まりました。我々は、サプリメントを販売する企業でここまでやるのかというくらい、iPS細胞などの先端研究を行っています。研究室の規模を拡大したことで、辞めようとした人間が思い留まっただけではなく、新たに優秀な研究員に入ってもらえました。

【弘兼】経営方針も見直した?

【池森】はい。私が経営の舵取りをしていたときは広告費を年間100億円ほど使っていました。ところが近年は売り上げが落ちてきたので、利益を出すために広告費を削って70億円ぐらいにしていた。結果、商品の知名度が十分に広まらず、また売り上げが下がるという悪循環に。私は広告費を150億円に増やし、売り上げをV字回復しました。ただ当然利益は減ります。

【弘兼】直近の利益が減っても、将来を見通して改革する。大胆な手が打てるのは、オーナーだからですね。

【池森】ええ。会社を創業した私でなければ絶対にできないですね。

【弘兼】ファンケルの売り上げ構成比を見ると化粧品6割、サプリメント3割。将来的にこの2本柱の割合はどうなると予想されていますか?

【池森】化粧品とサプリの割合が逆転するでしょう。3対7ぐらいになるはずです。我々に限らず、大手の化粧品メーカーは50代、60代を対象にした化粧品に力を入れています。今後10年くらいはそれでいいでしょう。しかし、その後はどうなるか。

【弘兼】現在の出生率を考えると化粧品を使う人はどんどん減っていく。

【池森】その通りです。一方、健康増進を目的としたサプリメントは、まだまだ成長の余地がある。これから中高年が増えてくると、サプリメントが必要になってきます。そして、日本と同じ動きが15年後に中国でも起きるはず。アジアという広い視点から考えれば、サプリメントのマーケットはこれから何倍にも膨れ上がる。無限大の可能性を秘めていると思います。

■弘兼憲史の着眼点

▼「サプリメント」を日本で広めた立役者

終始柔和だった池森さんの表情が変わったのは、対談終盤にこう尋ねたときのことでした。

「ファンケルはサプリメントという言葉を日本で最初に使ったメーカー。でも今、売り上げはサントリー、DHCに追い抜かれています。その理由は……」

池森さんは私の質問を遮って「悔しいですよ」と言いました。

「何とかしたいと思っています。その目処をつけてから引退しないと」

そう、冗談めかして付け加えました。

池森さんは自分の後継者には次の条件を考えているそうです。

(1)価値観の面で私と相性が合っている
(2)その人の力量がわかる程度の期間、会社に勤めていること
(3)「できる人(才のある人)」であり「できた人(徳のある人)」であること(徳を重視)
(4)人望のある人、すなわち社内で評判のいい人
(5)複数の帽子をかぶれる人(会社全体のことを考えられる人)

特に(3)から(5)は、私が「島耕作」シリーズで書いていることと同じ、でした。

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弘兼憲史(ひろかね・けんし)
1947年、山口県生まれ。早稲田大学法学部を卒業後、松下電器産業(現・パナソニック)勤務を経て、74年に『風薫る』で漫画家デビュー。85年『人間交差点』で第30回小学館漫画賞、91年『課長島耕作』で第15回講談社漫画賞、2003年『黄昏流星群』で日本漫画家協会賞大賞を受賞。07年紫綬褒章受章。

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(漫画家 弘兼 憲史、ファンケル 代表取締役会長ファウンダー 池森 賢二 構成=田崎健太 撮影=大槻純一)