人形町の女: 信じた私が馬鹿だったの?自分ではない女の香りで気づく、夫の嘘
結婚して家を買い、そして子どもを授かる。
今まで「幸せ」だと信じて疑わなかったもの。
しかしそれを信じて突き進んでいくことが、果たして幸せなのだろうか?
外資系化粧品会社でPRとして働く祐実、29歳。
これは東京でもがき苦しむ女性の、人形町を舞台にしたある物語―。
結婚生活3年目。水天宮へお参りに行き、子作りに励む祐実と純だったが、祐実は徐々に今の生活に疑問を持つようになる。

「祐実、もう寝ちゃった?」
純の問いかけに、祐実は思わず身を縮こませる。
その言葉に答えず寝たふりをしていると、純はベッドに入ってきて後ろからぎゅっと祐実を抱きしめた。
「……ん」
寝ぼけたふりをし、また目をつむる。
純は諦めたのか、5分もすると安らかな寝息を立てた。祐実はそれを確認し、起こさぬようこっそりベッドから抜けだした。
このマンションに二つある洋室の一部屋は物置部屋となっているが、そこには祐実が幼いころから集めている、たくさんの化粧品が置いてある。
すっかり目が冴えてしまった祐実は、その物置部屋に逃げ込んだ。眠れないときはこうして、今まで集めてきた化粧品の数々をじっくり見るのが常だった。
自社製品ではないが、昔からジル・スチュアートのリップが大好きで、新色が出るたびに買っている。洋服はシンプルな感じが好きなのに、なぜか化粧品だけは別で、いつもの自分とは違う女の子らしいものが欲しくなるのだ。
ジュエリーのように繊細に造り込まれた容器に入った、うっとりするほど艶やかなリップは、母親の口紅をこっそり使っていた幼い頃の背徳感を思い出す。
「子供はね、本当に可愛いわよ。早く作ったほうがいいわ」
今日は、久しぶりに大学時代の友人、加奈子と沙希と会っていた。
加奈子に子供が生まれてからは専ら昼間に集まっていたが、今日は「実家から両親が来ているから思う存分羽を伸ばせる」と加奈子たっての希望で、ディナーの約束をした。
「子供は早く作ったほうがいいわ」という加奈子の言葉に、子供を持つことに漠然とした不安がある祐実は、心からうなずくことはできなかった。
さらに続く女友達の言葉に、複雑な気分を抱く祐実。
加奈子は昔から頭が良く、外資系IT企業の就職試験にもあっさりパスした。
産休明けも「これまで以上に働いている」らしいし、しっかりと制度が整った会社なので、子供がいることがキャリアへの阻害にもならないのだろう。
それなのに、子供のいない祐実と沙希に会う時の加奈子は、いつも少し攻撃的になる。
「祐実も結婚して3年目でしょ?そろそろじゃない?」
そう聞かれても、この間のことは言い出せなかった。
それどころか妊娠かもしれないと思ったとき、喜びよりも戸惑いのほうが大きかったとは。
◆
「あれ?土曜日なのに出勤?」
純がリビングにやってきたとき、時計の針はもう10時を過ぎていた。昨日は結局、充分に寝られなかった。
「うん。週明けからキャラバンだから、準備しておかなきゃと思って」
半分は本当で、半分は嘘だ。
「そっかぁ…。じゃあ今日は何しようかな」
純の言葉にチクリと胸が痛んだが、今日彼と一緒にいるプレッシャーから解放されると思うと、晴れ晴れした気分になった。
一人で過ごす休日。祐実が目指した先は?
祐実は、『ロットチェント』に来ていた。人形町という街に魅せられて以来、色んなレストランを調べて行く中で、昨年オープンしたというこの店に辿りついたのだ。

店内を見渡すと、海を思わせるような青いカーペット、テーブル上にはアロハ柄が特徴的なデニム地のランチョマットが置かれている。アロハ柄の生地は店内の随所に飾られており、心地よい空間を醸し出していた。
ランチのパスタは3種類で、定番のアラビアータを頼んだ。そのパスタを一口食べ、祐実は驚いた。こんなに美味しいパスタは久しぶりだった。
麺は太めでコシがあり、辛目のトマトソースもそれに負けずしっかりした味わいで、何度でも食べたくなるような、癖になる味わいだ。
夢中になってあっという間に食べ終わり、会計を済ませようと立ち上がると、店主と思われる男性に声をかけられた。
祐実が「美味しかったです」と礼を述べると、店主は「またお越しください」とニコニコしながら言い、その顔を見て満ち足りた気分で外に出た。
帰りがけ、隣にあった『ストリーマーコーヒー』に立ち寄り、水天宮前駅から半蔵門線でオフィスのある永田町に向かった。
人形町で気を紛らわせた祐実だったが…?
「仕事がある」と純に言ったのは、咄嗟の嘘だったが、来週からキャラバンが本格的に始まるため、その準備をしなくてはいけないのは、本当だった。
化粧品のPRという仕事は、特に今の上司である麗子の下についてからは自分の天職だと思っている。昔からメイクが大好きだったし、尊敬できる上司の下で働けるのは、本当に幸運だ。
月曜日に、3つの媒体を回る予定だった。商品の説明資料を読み込み、サンプル商品を準備し、それに祐実がPRとして働き始めたときから更新を欠かさない編集者のリスト(各々の趣味嗜好を把握するメモ)をチェックした。
準備に没頭していたら、時計は18時を回っていた。マナーモードにしてバッグに入れたままだったスマートフォンには、何件ものLINEが溜まっている
全て、純からだった。
「ごめん、今気づいた。ご飯どうする?」
すぐさま返信し、帰路につく。
祐実の携帯には、「ご飯」と打つと、すぐさま「どうする?」という言葉が出てくるようになっている。
仕事に没頭していたら、昨夜のことはすっかり忘れていた。
信じて疑わなかった夫からの、裏切り
祐実は、子作りへのあやふやな気持ちを晴らすかのように仕事に明け暮れ、そして純との夫婦生活をやんわりと拒否し続けた。決して言葉にはしなかったが、その態度に気づき始めた純は、次第に祐実を誘わなくなった。
そんなある日、祐実が仕事から帰り、シャワーを浴びてリビングでテレビを見ていると、少し飲んできたらしい純が帰って来た。
「お水いる?」と言って、グラスに水を注ぎ純に近づく。

すると、純から人工的な甘い香りがふわりとして、思わず「女の子と飲んでいたの?」と聞いた。
もちろんその「女の子」というのは、会社の同僚とか、祐実も知っている女友達だとか、そういう類を想像して出てきた言葉だった。
純がまさか浮気なんてするはずない、そんな確信が祐実にはあった。
しかし祐実のその質問に、純は「何言ってるんだよ」と言って、しかし差し出した水は受け取らず、すぐシャワールームに行ってしまった。
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祐実の疑いは、確信に変わるのか?