久保建英が生まれた時、サッカー界にまだ存在していなかった7つのもの

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先週末、16歳の誕生日を迎えた久保建英。

そんな久保が生まれたのは2001年6月4日で、この日はコンフェデレーションズカップ2001のグループステージで鈴木隆行がカメルーンから2ゴールを奪った直後であった。

当時は日本がワールドカップで1勝も成し遂げていなかった時代であり、そう考えればあれからいろんな変化があったものだ。

そこで今回は久保建英が生まれた時、サッカー界にまだ存在していなかったものを考えてみる。

もちろん、2001年6月4日以降に行われた試合や大会の全てがそれに該当し、2001年以降に全盛期を迎えた選手もそれに当てはまる。

挙げればキリがないのだが、今回は久保の誕生年と比較した際に際立つような印象的なものを7つピックアップする。

埼玉スタジアム2002

浦和レッズが世界に誇るホームスタジアムであり、日本代表戦の大一番で必ず使用される埼玉スタジアム2002。

その名の通り2002年のワールドカップに向けて建設されたサッカー専用スタジアムであり、2001年10月6日に開場となり、10月13日に行われたJ1の試合がこけら落としとなった。久保がA代表の選手として、このスタジアムでプレーする日はやってくるのだろうか?

なでしこジャパン

世界を制し、国民栄誉賞も受賞したサッカー女子日本代表。今では「なでしこジャパン」という愛称が当たり前のように使われているが、その名前が決定したのは2004年のアテネ五輪前だ。

日本サッカー協会スタッフのアイディアで愛称制定が公募され、「なでしこジャパン」に決定に。ちなみに、候補の中には「ヤタガールズ」というアイディアもあったそう。もちろん、女子日本代表は久保が生まれる前から活動している。

AFCチャンピオンズリーグ

「アジアクラブ選手権」という名で行われていたコンペティションは2002年、アジア王者を決定する目的でAFCチャンピオンズリーグに再編された。

創設初年度の2002-03シーズンは16チームによって争われ、この時日本からは鹿島アントラーズと清水エスパルスの2チームが参加。その後出場チーム数も増え、フォーマット編成を繰り返しながら現在のものにたどり着いた。もちろん、トヨタカップがクラブワールドカップに変遷されるのはACLの誕生後。

モンテネグロ代表

久保が誕生した2001年当時、ユーゴスラビアを形成していたセルビアとモンテネグロ。その後、旧ユーゴの解体によってセルビア・モンテネグロという共同国家が誕生し、同代表は2006年のワールドカップにも出場した。

しかし同年にモンテネグロが独立を果たし、代表チームもセルビアとモンテネグロの二つに分かれることとなった。つまり久保が生まれた頃、モンテネグロ代表はまだこの世に存在していなかったということになる。

シルバーゴール方式

1990年代後半から採用された「ゴールデンゴール方式」。ワールドカップやEUROといった主要国際大会でも導入され、日本が初めてワールドカップ出場を決めた“ジョホールバルの歓喜”もこのルールによって勝敗が決着した。

しかし、その公平性に疑問を持ったUEFAは延長前後半の時点で勝敗を決めるという「シルバーゴール方式」を取り入れることに。EURO2004でも採用されるなど一時はスタンダードになっていたが、現在では廃止されている。ひょっとして久保はこのルールを知らない…かも?

RBライプツィヒ

初昇格ながらブンデスリーガで2位につけ、UEFAチャンピオンズリーグの出場権も手にしたRBライプツィヒ。周知の通り2009年に創設された非常に新しいクラブチームであり、久保が誕生した頃にはクラブとしての原形もなかったはずだ。

勢いを見せる新規クラブはいくつかあるが、これほどのスピードで1部リーグへと昇格し、CLへの挑戦権を獲得したケースは世界的にもほとんどないだろう。

追加副審

ジャッジの面で目覚ましい変化を見せるサッカー界。近年では追加副審を置くケースが増えているが、久保が生まれた2001年当時は1人の主審と2人の副審によって試合の判定が下されていた。

その後、テクノロジーの進歩によってゴールライン・テクノロジー(GLT)やビデオ副審制度(VAR)が導入され、バニシング・スプレーの使用はもはやスタンダードに。今の子供たちに「機械の力を借りずに3人で裁いていた時代があったんだよ」と伝えると、驚いてしまうかもしれない…。