東京の年頃の女たちは、容赦なく選択を迫られる。

結婚する、しない。
子どもを産む、産まない。
働き続ける、働くのをやめる。

2017年の東京を生きる大人の女性が、悔いなき人生を歩むために身につけるべき「品格」とは?

30歳で婚約破棄。未来に絶望した千晶は、導かれるようにして、ナンタケットバスケット教室「エーデルワイス」を主宰する高貴な妻、白鳥雪乃と出会う。

千晶は、謎めいた彼女に「エーデルワイフ」とあだ名をつけ、その高貴な佇まいを観察し始める。




見なきゃいいのに…


見なきゃいいのに、見てしまう。

女というのはどうして、他人の幸せを覗き見るのをやめられないのだろう。

傷口に塩を塗るとわかっているのに、立花千晶はある女のインスタグラムを、つい見てしまった。

ある女とは、ついさっきナンタケットバスケット教室「エーデルワイス」で出会った、柳沢結衣のことだ。

彼女の左手薬指には大粒のダイヤが光っていて、「一度も働いたことがない」という驚愕の発言から、結衣が特に恵まれた環境にある専業主婦だ、ということはわかっていた。

そして想像通り、インスタグラムに投稿される彼女の日常は、絵に描いたような幸せそのものなのだった。

ナンタケットバスケット教室をはじめ、フレッシュフラワーのアレンジメントクラスやおもてなし料理のお稽古に通う様子。

日常のワンシーンの奥に垣間見える広いリビングと、漂う幸福感。

ミニブーケや、ケーキの写真に添えられた #旦那様に感謝 や #優しい旦那様 などのハッシュタグ。

しかし規則正しく並ぶ正方形の写真はどれも、競うように「幸せ」を主張していて、どうしてだろう...息苦しい。

心に浮かぶ“違和感”は、30歳で婚約破棄された女の、ただの妬みなのだろうか。

千晶はため息をつき、画面をスクロールする手を止める。そしてその指を無機質に見つめた。

自爪のままの指先はひどく疲れていて、気分が滅入る。


結衣に感じる小さな違和感。その正体は嫉妬なのか、それとも?


幸運は、指先から


カタカタ...

週明けの月曜日。

朝日が差し込むデスクで千晶は、自身が奏でるタイピングの音を心地よく聞いた。

こんなふうに晴れやかな心持ちで1日をスタートするのは、一体いつぶりだろうか。

フレンチネイルを施し、十分に油分の行き渡った指先を眺めることが、こんなにも心華やぐとは。

...もうずっと長い間、忘れていた感覚だ。

仕事にも日々の生活にも忙殺され、指先まで気を遣ったり十分な手入れをするだけの時間、そして何より心の余裕がなかった。

しかし昨日、疲れきった指先を見たら居ても立ってもいられなくなり、ネイルサロンへと駆け込んだのだった。




エーデルワイフ・白鳥雪乃の爪は、美しかった。

雪乃だけではない。ナンタケットバスケット教室「エーデルワイス」に集まる女性の爪には、決して華美ではないが、それぞれに上品で清楚なデザインのネイルが施されていた。

お道具やバスケットの材料を受け取る時、彼女たちの淡いピンクやホワイトに彩られたネイルが否応なく目に入る。

「綺麗な爪...」

思わず呟いた千晶に、エーデルワイフ・雪乃は、ふわりと微笑む。年齢不詳の透き通るような艶肌、行儀よく配置された唇に、つい見惚れていると、彼女はこんなことを言った。

「幸運は指先からやってくる、と言うでしょう」

そんなことわざは、聞いたことがない。しかし妙な納得感があり、記憶に残っていた。



お昼休み。

プラチナ通りのイタリアンレストラン『グラッポロ』に、後輩・梓(あず、と呼んでいる)と並んで座る。

ここはパスタランチがお得で、仕事に余裕があるときなんかに時々訪れている店だ。

「エーデルワイフ...って何それ、昭和の親父ギャグ?」

あずが、呆れ顔で笑う。

彼女は、4歳年下の26歳、平成生まれ。何かにつけて千晶をおばさん呼ばわりしてくるのだが、こうして気兼ねなく話すのも久しぶりだった。

婚約者だった涼ちゃんの浮気発覚により、千晶が婚約破棄を決断してから、何となくお互い気を遣って別々にランチをとっていたから。

しかし今朝ふいに、あずが「先輩、グラッポロ行きません?」と誘ってくれた。

無遠慮だが勘のいい子だから、千晶の周囲に漂う空気が変わったのを察したのかもしれない。

「...しかしよくもそんなアウェイな場所に、乗り込みましたね」

エーデルワイフ・雪乃との出会いや、ナンタケットバスケット教室という未知の世界に足を踏み入れた話をしたら、あずに目を丸くされた。

「まあでも、エーデルワイフのおかげで千晶さんが元気になったなら、良かったです。エーデルワイフに乾杯」

悪戯っぽく笑い、あずはガス入りの水が入ったグラスを合わせた。

きっと彼女なりに、心配してくれていたのだろう。不器用な優しさがじんわり沁みる。

婚約破棄から1ヶ月、千晶は文字通り不幸のどん底にいた。未来に絶望し、自分は幸せを掴む星の元に生まれつかなかったのだ、などと被害妄想にどっぷり浸かっていた。

しかし絶望の淵に立ってもなお、美は心を晴らすし、人の優しさは温かいのだと知った。


雪乃の助言で前向きになれた千晶だが、ある電話で心が乱される。


女を幸せにするのは、どっち?


1ヶ月の沈黙を破り、婚約者だった男・涼ちゃんから電話がかかってきたのは、その日の夜だった。

お茶を淹れ、Netflixでテラスハウスハワイ編を観るつもりだった。

「エーデルワイス」で雪乃が淹れてくれたハーブティーが美味しかったから、同じものを目黒駅のアトレで買ってきておいたのだ。

さあ、一人時間を満喫しよう、というタイミングでふいにスマホ画面に表示された、“涼ちゃん”の文字。

「もしもし?千晶…出てくれて良かった」

-ようやく取り戻しつつある平穏を、邪魔しないで。

そう思う一方で、懐かしい声を聞いてしまうと心が揺らぐ。結婚まで考えた男を簡単に嫌いになれるほど、都合よくできていないのだ。

-あの時、涼ちゃんのパソコンなんか、見るんじゃなかった。

無意味な“もしも”を、何度無限ループしただろう。

調べものをしようとして、涼ちゃんのMacbookを借りた。そうしたらあろうことか、彼のFacebookページが開いたままになっていた。

それで、つい見てしまったのだ…メッセンジャーの履歴を。

知らなければ千晶も今ごろ、きっと幸せな新妻だった。結衣と同じように。

涼ちゃんは総合商社に勤めていて、近々海外駐在の可能性がある。そうなったら千晶は仕事を辞め、専業主婦をする覚悟だってできていた。

真実を知ることと、知らずに騙されること。女を幸せにするのは、一体どちらなのだろう。

「…お願いだから切らないで、話を聞いてくれ」

100%悪いのは涼ちゃんだから当然だが、彼は完全に下手に出ている。

話を聞いてくれも何も、聞かなくてももう、彼の言いたいことならわかっている。「浮気はしたが、結婚したいのは千晶だけだ、別れないでくれ」というのが涼ちゃんの言い分。

何を勝手な…。そんな身勝手な言い分を「はい、そうですか」と聞く女がいると思っているのだろうか。

「...どうしたら許してくれる?」

涼ちゃんの無責任な言葉と、冷めてしまったハーブティーが、千晶の我慢の糸をぷつん、と切った。

「本当に許して欲しいなら、方法くらい自分で考えて!」

叫ぶように言い、千晶はスマホをベッドに投げ捨てた。

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よりを戻したい涼ちゃんに、揺れる千晶。エーデルワイフの助言は?