雪崩を前に子供を守らず、ひとり猛スピードで逃げる父親

わー、向こうの方で局地的にめっちゃゲリラ豪雨ってるけど、あれこっちに近づいてきてるっぽい、っていう時ありますね。今の時期、結構怖いものです。

すごく幼い頃、母の生家の近くの海でそれに遭遇したことがあります。母と2人の姉の4人で浅瀬でポチャポチャやっていて、あ、向こうでザーザー降り!と言っているうちにみるみる雲が近づいてきて、ひゃああああとなりました。

まあ言うても槍が降ってきたわけじゃない、ただの雨ですし、水着で遊んでたんでびっしょ濡れになってもどうということはありません。でも幼い子供一般にとってはちょっと怖いものだと思いますし、親一般は子供を連れて逃げねば、という場面でしょう。でもってその場面で我が母がどうしたかと言えば、「そら逃げろ!」と威勢よく号令をかけて一人先に逃げてしまったのでした。いやもう子供ら呆然。

ということで今週のネタは『フレンチアルプスで起きたこと』。

カンヌ映画祭でパルムドールを獲得したリューベン・オストルンド監督の前作です。物語は休暇でアルプスにスキーをしにきたスウェーデンの一家を描く物語なのですが、この作品を思うとき、私の中には必ず子供時代の"母逃走事件"が甦ります。なぜかといえば、この映画の中に登場する父親が、ほぼ同じことをやらかすからです。

ゲレンデで定期的に起こす人口雪崩、それが予期せぬ大きさになって家族が昼食をとるテラスレストランに襲い掛かったとき、身を挺して子供たちを守る母親を置いて、父親は自分だけ猛スピードで逃げ出します。事なきを得た後、テラスに「ふー、危なかったな!」と爽やかに戻るものの、母親はもとより子供たちまで激シラケ。ところがその夜、事態はさらに、急速に悪化してゆきます。この父親が「え?俺は逃げてないし」と言い張り始めるのです。

雪崩〜!こんな時、あなたなら!?

「父親が逃げても、母親は絶対に逃げないものなのよね」

映画はほぼ全編がこの父親のダメっぷり、そして「たいていの男はいざとなると逃げる」という認識を持つ大人の女性にとっての「男あるある」を、徹底的に笑いのめしてゆきます。「スキー靴で走れるワケない」「それはお前の見方で、俺には別の見方がある」など説得力皆無の理由を自信満々で並べる下り、動かぬ証拠を突きつけられた時のうつろな表情、取りつく島のない妻の同情を引くためのウソ泣き、黒いパンイチで号泣しながら「俺だってこんな俺が大嫌いだ、俺こそダメな俺の被害者だ、だって俺は俺から逃げられない」という知ったこっちゃないわ!な言いぐさなど、そのダメさは爆笑に次ぐ爆笑です。

さて私がこの映画ですごくポイントだと思うのは、父親が「逃げたこと」よりも「逃げてないと言い張ったこと」です。100歩譲って、とっさに逃げてしまったことは仕方ない、認めて謝れば母親も許してくれたはず。にもかかわらず「逃げてないと言い張った」のは、「逃げたこと」を認めてしまうと崩壊するものがあったからにほかなりません。

それが何かと言えば、ピンチの家族を守る英雄という「理想の父親(男)像」です。つい嘘が出たのは、そうまでしても自分が「理想の父親(男)」だと信じたいがためなわけで、それが瓦解すると同時に彼の中の「理想の父親(男)像」も完全にぶっ壊れ、「男」にあるまじきパンイチ号泣するまでに至ります。

ところが「男ってこれだから」と思って見ていたら、監督の術中にハマることに。というのも父親のダメっぷりを責める(観客を含めた)女子たちの中に、「こういう時に母親は絶対に逃げない」という具合に、知らぬ間に「理想の母親(女)像」が喚起されてしまうからです。

そして再び、私は「母親逃走事件」を思い出します。その直後から今の今まで我が家の語り草であるこの事件、「あんたはあの時逃げた」と責められるたびに全然悪びれずに爆笑する我が母に、私は変な話ですがなんだかホッとします。とっさの時、逃げるか逃げないか、助けるか助けないかは、人間の違いであって、母親と父親の違いではありません。「母親はこうあるべき」からいろんな部分ではみ出していたあの人の自由は、今の私を支える強さになっている気がするのです。

♥【女子の悶々】記事一覧はこちらでチェック