オーストリア北部ザルツブルクの「モーツァルトの住居」で、モーツァルテウム財団主催の展覧会で展示されたウォルフガング・アマデウス・モーツァルトの息子で同じ音楽家のフランツ・クサーヴァー・ウォルフガング・モーツァルトの肖像(2016年3月9日撮影)。 (c)AFP=時事/AFPBB News

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【AFP=時事】著名な親を持つことには、良い面も悪い面もある。しかしオーストリアの音楽家フランツ・クサーヴァー・ウォルフガング・モーツァルト(Franz Xaver Wolfgang Mozart)にとっては他の誰よりも大変なことだった。

 フランツ・クサーヴァーは1791年、天才作曲家の父親ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)が死去する数か月前に生まれ、生涯にわたって父親の影から抜け出そうともがき続けた。

 母親のコンスタンツェ(Constanze Mozart)は1801年、当時9歳だったフランツ・クサーヴァーに宛てて「両親を失望させる子は不名誉と苦痛に直面することになります。この言葉を私の愛する息子への警告とします」と書いている。

 この不吉ともいえる手紙は、モーツァルト作品の研究などを行う国際モーツァルテウム財団(International Mozarteum Foundation)が主催する展覧会の一環として、オーストリア北部ザルツブルク(Salzburg)の「モーツアルトの住居(Mozart Residence)」で現在展示されている数多くの私信の中の一通だ。

 フランツ・クサーヴァーが1844年に死去するとモーツァルトの血筋は途絶え、数多くのモーツァルト家の文書が同財団に寄贈された。

■とてつもないプレッシャー

 モーツァルトとコンスタンツェは6人の子どもをもうけたが、そのうち成人したのはフランツ・クサーヴァーと兄のカール・トーマス(Carl Thomas Mozart)だけだった。

 国際モーツァルテウム財団の学芸員を務めるアルミン・ブロンジング(Armin Brinzing)氏によると、コンスタンツェは著名な夫の死後、フランツ・クサーヴァーを「第2のモーツァルトにしなければ」と決意した。

 ブロンジング氏は「フランツ・クサーヴァーが2歳の時、彼女はすでに息子にピアノと音楽理論を習わせていた」と語った。

 コンスタンツェは、フランツ・シューベルト(Franz Schubert)やルートウィヒ・ベートーベン(Ludwig Van Beethoven)といった教え子を持つイタリアの作曲家アントニオ・サリエリ(Antonio Salieri)ら、当時最も著名な教師陣を雇った。

 またコンスタンツェは、息子に対して「ウォルフガング・アマデウス」としか呼び掛けなかったという。事実、フランツ・クサーヴァー自身もすべての自分の作品に「ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト、息子」と署名している。

 フランツ・クサーヴァーが兄とやり取りした手紙によって、彼が幼いころから「とてつもないプレッシャー」を感じ、「家では厚遇されてこなかったこと」が明らかになった。

 フランツ・クサーヴァーはわずか13歳で、ウィーン(Vienna)のホールで待望の初公演を行った。評論家らはフランツ・クサーヴァーのパフォーマンスを称賛し、ある評論家は「父親のピアノ協奏曲をもう少しゆったりとさせた演奏だとすれば彼は素晴らしかった」と評した。その一方で、この栄光に満足するなと警鐘を鳴らす批評もあった。

「モーツァルトの住居」に展示されている19世紀の主要音楽誌「アルゲマイネ・ムジカリッシェ・ツァイトゥング(Allgemeine Musikalische Zeitung)」の論説では、「モーツァルトの名によって今は寛大に扱われているが、その名が後々大きくのしかかるであろうことを忘れてはならない」と書かれている。

■死してものしかかる父親の影

 フランツ・クサーヴァーは17歳の時に親元から逃れ、当時ハプスブルク(Habsburg)家のオーストリア・ハンガリー帝国の一部だったウクライナ西部リビウ(Lviv)で、裕福な家庭のピアノ教師の職に就いた。

 彼はそれから20年、自分の評判を高めようと欧州各地で音楽を教えたり、演奏したりしていた。

 父親の優れた音感を受け継いだフランツ・クサーヴァーは、400人の聖歌隊を指揮したり、リビウ初の音楽学校を創設したりした。その音楽学校は現在、国立音楽学校として存続している。

 しかし元祖モーツァルトと比較すると、フランツ・クサーヴァーの音楽家としての実績は少なく、強く印象を与えることもなかった。それが最も端的に表れているのが、1842年にザルツブルクで父親のモーツァルトにささげられる記念碑のお披露目の際の式典用に曲をつくるよう依頼された時のエピソードだ。

 自己不信にさいなまれていたフランツ・クサーヴァーは、自分は失望させるだけの「ほとんど才能がない」音楽家だとして依頼を断った。代わりにフランツ・クサーヴァーは父の未完の2曲をカンタータに仕上げた。この曲は式典で拍手喝采を浴びた。

 その2年後、フランツ・クサーヴァーはチェコのカルロビバリ(Karlovy Vary、ドイツ名:カールスバート、Carlsbad)での静養中に胃がんで死去し、同地に埋葬された。

 フランツ・クサーヴァーの墓石には次のように刻まれ、死してもなお父親のモーツァルトの魂が大きくのしかかっている。

「父親の名が彼の墓碑銘となりますように。彼の父親に対する畏敬の念こそが彼の人生の本質だったように」
【翻訳編集】AFPBB News