夜更けの赤坂で、女はいつも考える。

大切なものは、いつも簡単に手からすり抜けてしまう。

私はいつも同じところで立ち止まり、苦しみ、前を向こうとして、またつまずく。

29歳、テレビ局の広報室で働く森山ハナは、ひと回り年上のプロデューサー・井上と出会う。

ハナは徐々に井上に惹かれていくが、元彼・渉君が 「彼女と別れた」と言って ハナの元へ戻って来た。今日は、親友の葵にそのことを相談する予定だった。




「葵ちゃん。ちょっと相談したいことがあるんだけど」

打ち合わせが終わり、帰ろうとすると、葵は編集長に呼び止められた。

葵は今日、神保町にある出版社に来ていた。葵が担当する化粧品メーカーの、タイアップ記事の打ち合わせのためだ。秋冬に向けて、マットな質感の口紅を7色発売するらしい。

老舗メーカーの久々の大型プロモーションなので、葵は最近、この仕事にかかりきりになっている。

葵を呼び止めた編集長は、今年で36歳。4月に、この美容雑誌の編集長に抜擢された。彼女とは、編集長になる前からの長い付き合いで、葵自身も、何度か誌面に出たことがある。

「ハナちゃんって、最近会ってる?」

読者モデルを探していた時、編集長にハナを紹介したことがあった。

「来月号、ファンデーションの読者企画があるんだけど、ハナちゃんにお願いしたくて」

編集長のその依頼に対して、葵は「もちろん」とにっこりうなずき、その場でハナにLINEする。

ハナに撮影の日程を連絡すると、すぐに「了解」と返信が来た。編集長に即座に「大丈夫だそうです」と伝えて、会議室を後にした。


ハナと一緒にいるといつも感じる、葵の敗北感。


神保町から半蔵門線に乗り、赤坂のオフィスに戻る最中、葵は気持ちを切り替えるために、耳にイヤフォンを差し込んだ。

「ハナちゃんにお願いしたくて」
「葵って、ハナちゃんと友達?」

今まで、嫌と言うほど聞いてきた言葉だ。

顔の造りで言えば、一つ一つのパーツがはっきりしている葵の方が、“美人”の部類だろう。しかしハナは肌が突き抜けて白く透明感があり、骨格も華奢で、その儚げな雰囲気はかなり独特なものだ。

昔から男の子に人気があるのも、断然ハナだ。

「ハナちゃんってさ、何か放っておけない魅力があるよね」

葵が以前付き合っていた修二も、よくこんなことを言っていた。それを聞くたび、魅力的な友達を誇らしく思うと同時に、ちくりと胸が痛んだものだ。

しかし幸か不幸か、本人は自分の魅力にあまり気づいていないように見える。

それどころか、ハナは葵を見て、いつも感心したようにこう言うのだ。

「葵は、いつもきれいにしてるよね」

どんな時も葵は、メイクも洋服も抜かりなくきちんとしている。しかしいつも声がかかるのは、化粧気のないハナなのだ。

ハナと一緒にいて感じるこの敗北感には、もう慣れっこだと言い聞かせる。それに、修二が言っていた「放っておけない」魅力に葵自身も惹きつけられて、こうして何年も友達をやっているのだ。

「今日13時に『榮林』ね」




表参道駅で千代田線に乗り換える最中、葵はハナにそう送った。ハナは先週、新番組のポスター撮影が終わった、と言っていた。今日は2人で久々のランチだ。



『榮林』に着くと、既にハナは待っていた。ここの酸辣湯麺は2人の大好物で、特に葵は、暑くなると無性に食べたくなる。

今日もハナにはほとんど化粧気がない。白い襟付きの濃紺のワンピースを着ている姿は、まるで少女のようだ。

「さっきのLINE見た?撮影、よろしくね」

ハナは「うん」とうなずき、美味しそうに酸辣湯麺をすすっている。そしてひとしきり食べたあと水を飲み、少しバツが悪そうに切り出した。

「ねぇ、明日ヒマ?井上さんとご飯食べない?」


葵は、ハナの言動がさっぱり理解できないが…。


葵は、井上という男に会ったことはないが、大体予想はつく。

まず、このハナの我儘に散々付き合っているのだろうから、よほど忍耐強い男なのだろうということ。そして、この振り回されている様子を聞くと、少し気が弱い男なのではないだろうか、とも。

説明下手なハナの話を、順を追って聞いてやると、渉君が「彼女と別れて嬉しいはずなのに」、井上という男の顔を「事あるごとに思い出しちゃって、どうしていいか分からない」ということらしかった。

「昨日、用もないのに思わず電話しちゃって。明日会おうってことになったの。葵も一緒にご飯食べようよ」

いつもぼんやりして口数の少ないハナが、珍しく饒舌だ。

葵が思うにまず渉君が彼女と別れているか、怪しいと思う。女たらしな上に嫉妬深い男なので、ハナの異変に気づき「別れた」と言って気を引きたいだけなのではないだろうか。

事あるごとに思い出すというくらいだったら、もう井上と幸せになればいいとも思うが、独身のアラフォー男もいかがなものか。そういう類の男は葵の会社でも珍しくはないが、やはりひと癖もふた癖もある男たちだ。

「しょうがないわねぇ、行くわよ」

“まっとうな結婚”をして幸せになりたいと思っている葵にとって、ハナは一体何がしたいのか、さっぱり分からない。

しかし、このハナの気を引いている井上という男には、大層興味が湧いた。



「はじめまして」

葵が来ることを聞いていなかったのか、着いた途端、井上は一瞬驚いた様子だったが、すぐに相好を崩し、そんなことはおくびにも出さずにこりと笑いかけた。

結局3人が集まったのは22時を過ぎていたので、軽く1杯、と『バー ティアレ』で飲むことにした。

井上は、葵の想像より数段まともに見えた。気の弱いという印象はなく、むしろ甲斐甲斐しくハナの話にうなずき、葵が楽しんでいるか気にかけながら話題を選んでその場をリードしてくれる。

井上といるとき、ハナは全てを委ね、心からリラックスしているように見えた。




―井上さん、いい人じゃない。

帰りがけハナが化粧室に席を立つと、井上は愛しそうにハナを目で追い、葵はその姿に深く嫉妬し、そしてとても残酷な気持ちになった。

「井上さん、ハナのことが好きなんですね」

思わずそんな言葉を口にすると、井上は少し困った表情で笑いかけ、葵は咄嗟にこう言った。

「でも、ハナには一緒に住んでいる彼氏がいますから」

その言葉に、井上は一言だけこう言った。

「知ってるよ」

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葵の言葉に、井上の反応は?