子を産み、子を育て、家を守る。

昔からあるべき女性の姿とされてきた、“良妻賢母”。

しかしその価値観は、現代においてはもう古い。

結婚して子どもを産んでも、男性と同等に働く女性が増えた今こそ、良妻賢母の定義を見直す時だ。

家庭も、仕事も、子育ても、完璧を目指すことで苦しむ東京マザーたちが模索する、“現代の良妻賢母”とは、果たしてどんな姿だろうか。

レコード会社で働くは、育休から復職した先輩・佳乃を見て、子供を育てながら仕事を続けることの大変さを目の当たりにして、将来の自分を不安に思うのだった。




27歳の希は、付き合っている昌大から結婚をほのめかされるようになり、怯えていた。

昌大のことは、心から好きだ。取り立てて言うほどのお姫様願望はないが、人並みに結婚への漠然とした憧れはある。

純白のウエディングドレス、煌びやかに彩られたテーブル、皆に祝福される自分は、人生で一番美しい日を過ごすのだろう。

だが、そんなものはたった1日の出来事だ。結婚ゴールの後には、果てしない日常が続く。

佳乃を見ていると、2017年の東京での結婚維持活動がどれほど大変なのか、つくづく思い知らされるのだ。

最近の佳乃は、疲れている上に言葉の端々に「大変なのアピール」があり、希は少しだけ辟易していた。


余裕をなくして、変わってしまった佳乃の姿。


最近は、佳乃のサポートで残業が増えた。希だけでなく、同じチームのメンバーは皆、本来であれば佳乃が担当するような仕事を少しずつ負担している。

時短社員がいる部署に、会社が人員補給をしてくれるのが理想的だが、希が勤めるような大手のレコード会社でも、そんなことはしてくれない。

毎日16時になると、佳乃が申し訳なさそうに少し背中を丸めて帰る姿をみると、同情することもある。

だが、彼女がたまに発する言葉により、つい眉をしかめたくなることがあるのも、事実だった。

「いいなぁ、希ちゃんやゆり子さんは仕事に没頭できて。育児って仕事よりも責任が重いから本当に大変よ。まあその分、得られる幸せも大きいけどね」

いつか2人でランチに行った際、佳乃は無邪気に言った。

こんな言葉、ゆり子が聞いたら烈火のごとく怒るだろう。もちろん子育ては立派なことだが、あまりにデリカシーに欠けている。

ほかにも、「ゆり子さんなんて、ちょっとくらい遅くなっても待ってる人もいないのにね」なんて、以前の佳乃であれば絶対に言わないような言葉が、たまにではあるがでてくるようになってしまった。

それだけ彼女には今、余裕がないのだろう。

「先週、夫とすごく大きなケンカをしちゃったのよ」

そんなこともぼやいていた。夫の紀之が飲みに行って深夜帰宅をし、分担している家事もせず、部屋の中を散らかしたままにしていたのが原因らしい。

もし自分も昌大と結婚して子どもを持って余裕を失くしてしまい、佳乃のようにデリカシーのないことを言ってしまったらと思うと、ぞっとする。


一緒に生活すると、見えてしまうあれこれ


付き合って2年近くになる昌大とは、お互い恵比寿に住んでいるため、平日でもどちらかの家に泊まり合うような、半同棲状態が続いている。

同棲ではない、半同棲。

逃げ場所は残しておきながらも、一緒にいたいだけ一緒にいられる。希はこの関係を最高だと思っている。

残業の後、くたくたの身体で昌大の家に行った時、洗濯機から溢れている洗濯物を見ても、シンクに溜まった食器を見ても、見て見ぬふりができるのは、まだそこが自分の部屋ではないから。

それが自分の生活スぺ―スでの出来事となれば、見て見ぬふりなんてできない。それが結婚というもので、一緒に暮らすということなのだろう。

その上子どもまでいたら、フルタイムで働きながら家事も育児も完璧にこなすなんて、一部のずば抜けてタフな女たちにしかできない芸当だ。


昌大とのデートで、希が怯えていた事態が現実になる。


6月の週末の夜、希は昌大と一緒に銀座へ向かっていた。

「たまには、素敵な所で食事しよう。銀座のレストランを予約したから、おしゃれしてきてね」

そう言って、昌大が1ヵ月も前から予約してくれていたお店だ。銀座のレストランなんて、何かのイベントがなければ行かないのに。だから希は、もうその予感しかなかった。

プロポーズだ。

銀座に着いて連れていかれたのは『ラール・エ・ラ・マニエール』という、ビルの地下にある、上品なレストラン。




通されたのは2人で使うには贅沢な広さの個室だった。

昌大は少し緊張しているようだが、その表情はいつもより凛々しく見える。特に荷物は持っていないから、今日は指輪を渡される「箱パカ」はないのかもしれない。いや、それともすでにお店に預けている可能性もある。

いろいろと勘繰りながらも、1品目の料理が運ばれてきた。

せっかくの料理を素直に楽しめないのが残念だが、希の心臓は大きく波打つ。

なんでもないフリをして、コース料理を食べ進める。そして、デザートまですべてを食べ終えた時、個室にオーナーソムリエが入って来た。彼の手には、豪華な花束が抱えられていた。

―きた……。

「希、僕と結婚してください。必ず幸せにします」

オーナーソムリエが昌大に花束を渡して部屋を出た後、昌大は小さく咳払いして、花束を差し出しながら言った。

「……ありがとう。嬉しい」

プロポーズをされて、まさか自分が泣くとは思っていなかった。サプライズではあるが、なんとなく予想していたため、心の準備はできていたはずだった。

だがやはり、心から好きな相手に「結婚してください」と言われると、自動的に涙がこみ上げてきた。

希の返事を聞くと、昌大はこわばっていた顔を緩めて「よかった〜」と大きなため息を吐くように言う。

「でも、待って」

ここで希は、はっきりさせておかなければと考えていた。

「結婚しても、私は仕事は続けるわよ。だから、家事の分担をきちんと分けたい。でも、昌大はそんなに家事能力が高いとは思えないから、きちんと家事ができるっていうことを証明して」

熱い涙を拭った希は、まるで仕事の指示出しをするように言った。

「え、そんなこと、今?」

「今だから、よ。最初にきちんとしておかないと。子どもができてからじゃ遅いんだから」

「それって、よく話題にでてくる佳乃さんの影響だよね……?」

希がニコリと微笑むと昌大は、しゃんと伸ばしていた背筋をだらりとさせて、背もたれに寄りかかる。

「なんだよそれ。何もこんな時に言う事じゃないだろ」

昌大がそう言いたくなる気持ちは、十分わかる。だがこの先、子どもを持つことになった時、佳乃のようにならないためには、こうするのが最善だと思うのだ。

佳乃の姿に自分の未来を重ね合わせた、27歳の希。

「結婚して子供は欲しいけど、あんな風にはなりたくない」

それが正直な気持ちだった。彼女のようにならないためには、夫の協力が何よりも大切。

希がたどりついた答えは、それだった。

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紀之の帰りが遅い日が増える。その理由を知った佳乃は、ある行動にでる。