「フリースタイルダンジョン」に出演する埼玉・春日部在住のラッパー、TKda黒ぶち。彼は今、シーンをどう思っているのか

 現在、フリースタイルラップがブームだと言われている。アンダーグラウンドで人気を博していたヒップホップMCバトルは昨年、テレビ番組『フリースタイルダンジョン』(テレビ朝日系)が始まった頃から急速に浸透し、学校から職場でも話題になっているそうだ。テレビCMでもラッパーの顔を良く見る様になり、一頃の「B系」「チェケラッチョ」というネガティブなイメージは払しょくされつつある。そんな時代の分かれ目ともいえる今の現象を現役のラッパーはどう思っているのだろうか。今回は、実際に『フリースタイルダンジョン』にも出演した埼玉・春日部在住のラッパー、TKda黒ぶち(ティーケーダクロブチ)にインタビュー。ヒップホップの本場である米NYに住んでいたこともある彼が感じる日本と米国の違いとは。ヒップホップとの出会いからシーンの展望などを語ってもらうなかで、大衆とヒップホップの距離感が見えてきた。

失恋で狙った一発逆転、ヒップホップの始まり

TKda黒ぶち

――ヒップホップとの出会いは?

 ヒップホップと出会うまでは音楽は全く聴かなかったんですよ。CDなんて1枚か2枚くらいしか聴いた事がなくて。ヒップホップに出会ったのは13歳の時。学校の部活中に校庭でRIP SLYMEの「雑念エンタテインメント」が流れて、その時に「なんじゃこりゃ!?」と思って…それがきっかけでヒップホップを好きになっていきました。今でもその曲は好きです。

 当時、「RIP SLYMEはポップだぜ」という友達がいて、その人がBUDDHA BRANDの『人間発電所』とLAMP EYEの『証言』(どちらも日本語ラップのクラシック的作品)を持ってきてくれたんです。その2枚で完全にヒップホップを好きになりました。ラップしている内容がどうこうよりも、声とかリズムから入った感じです。そこから段々と、言葉の内容に「ヤバい」と感じる様になっていきました。

 当時はポップスがあまり好きじゃなかったんです。ベタなメロディが大嫌いで。なんか、胡散臭い印象だったんですね。でも自分の中で前衛的なリズムがヒップホップでした。

 ラップを始めたのは高校1年生の時です。当初はラップではなくてDJになりたかったんですけど。同じクラスにいた友達のお兄ちゃんがラップをやっていて、その友達が僕の事を話したら「会いたい」と。それで会ったらとてもイカツイ人で。出会い頭に「君の事、聞いてるよ。ラップやりたいんでしょ?」と言われて、つい「はい」と(笑)。それでその方にラップの作法を教わったんです。<韻>、<小節>、<言いたい事をラップする>、<嘘はついちゃいけない>とか。クラブとかに連れて行ってもらって、肌で感じて勉強しました。

 だけど、きっかけはそれだけじゃないんですよ。高校の時、本気で好きな子がいて、初恋ですね。その子に超裏切られて。その初恋に敗れて、(部活の)野球も中途半端に辞めて、どこかで一発逆転したいなというのがありました。それで「もう、これはラッパーになろう」と。人生をひっくり返してやろうと思ったんです。

 家が貧乏で…とかではないんですよ。ただ家が母子家庭だったというのはありました。でもヒップホップには<父親がいない>という事を歌った曲もあって。そういう生々しさを歌っても良い、という事にもやられていたんです。自分の中で言い出せずに抱えていた問題を、音楽にしてばらまいて良いんだと。

 そこからラップを書き始めました。ちょうど「ラップをやりたい」という奴に偶然出会って、一緒にステージに上がろうと約束したんです。当時、「春日部ing」というクラブがあって。そこで初めてラップをしました。オーガナイザーの人に頼み込んで出してもらったんです。2MCで1曲限定でしたけどね。既存のビート(ラップなしの曲)を使って、オリジナルの「感謝」というタイトルのラップをしました。今のスタイルとは正反対の感じで、相方は歌詞が飛んじゃいましたけど、僕は飛ばなかった。「あ、始まったな」という感じがありました。その“初ライブ”はいまだに忘れません。

 そのユニットは、もう1回ライブして、解散してしまいました。突然、相方が「もうやらない」と言い出して。それでソロ活動を始めました。最初は<TK>という名前でやって。でも当時、黒縁メガネをかけながらラップやっている人はいなかったんです。怖い人や、ヤンキーばかりで。馬鹿にされたりもしましたよ、「黒縁メガネかけながらラップしやがって」みたいな。でも僕は「同じ人間なんだから、言いたい事は共通にあるじゃん」と思っていて。

 あと、同じ<TK>というラッパーが関西にいると聞いていたので、「自分は黒縁メガネをかけて、言いたい事を言いたくてラップやってんだ>という事で<TKda黒ぶち>と付けました。ニューヨークのラッパーで名前の真ん中に<da>を付ける人がいたので、それへの憧れもありました。

フリースタイルで手に入れたリズム

TKda黒ぶち

――フリースタイルはいつから?

 埼玉の先輩で「ドルネコマンション」という3人組がいました。その人たちがライブの中でいつもフリースタイルをやるんですよ。今となってはフリースタイルブームですけど、当時は「え、その場でラップ出来るの? 凄いじゃん」と宇宙人みたいな目で見られたんです。東京にはあったんですけど、自分達のライブ界隈では全然身近じゃなくて。でもその先輩達はガンガンやっていた。控室とかでも3人でフリースタイルしながらコミュニケーションを取っていたんですよ。僕が「フリースタイルってどうやってやるんですか?」と聞いたら「例えばここにコーンがあるじゃん。“此処にあるのはコーン、つまり赤。それは星飛馬のお父さんの様にメラメラ燃える炎”みたいな感じでワードを繋いでいくんだよ」と教えてくれました。

 自分もドルネコのマネをしてフリースタイルを始めたんです。原付に乗りながら、見えてくる看板の名前などをネタに口ずさみながら練習して、韻を踏んでいく事を覚えて。連想ゲームとして教わった感じです。ライブで歌詞が飛んでもフリースタイルをやれる様になっていき、そこから自分のラップのフォーマットが変わっていきました。フリースタイルとなると書くものではないので、今入ってきたリズムに対して自分の素直なリズムでラップしなきゃいけない。それで段々と<自分のリズム>が体に染みつきました。

 <自分のリズム>のもとで、普段のラップも書ける様になって、フリースタイルでリズムを手に入れたという感じです。フリースタイルをする毎に自分の書くリリックの質がリズム的に上がっていって。リリックの内容というのは年を重ねて成熟していくものだと思います。今若いラッパーで上手い人が多いというのは、<自分のリズム>を早い段階で手に入れているからじゃないですかね。

 2005年は、渋谷のハチ公前で「Da.Me.Records」(※編注=ヒップホップレーベル)との面々と太華さん(ヒューマンビートボックスプレイヤー)が毎週土曜日に『渋谷サイファー』(サイファー=集団フリースタイル)をやっていて、それが凄い刺激的で、僕も16歳から毎週土曜日渋谷に通っていたんです。たまたま原宿に友達と買い物に行った時に通りかかったのがきっかけだったんですけどね。そこには各地でフリースタイルをやっていた人たちが一同に会して。関東圏が多かったですけど、日本全国から色々な人が来てましたよ。今ではネットが一番、情報量が多いですけど、当時はそこが情報交換の場で。出会った人からイベントに誘ってもらったりして、どんどん自分のテリトリー外でライブをやる機会が増えていきました。

 ちょうどその頃、『B BOY PARK』(※編注=MCバトル大会。KREVAが3年連続優勝した事でも知られている)のバトルが復活したんですよ。まだフリースタイルを始めて半年くらいでしたけど、その時に本選のベスト8まで行きました。そこから急に名前が広がっていた感があります。それ以前にもバトルはしたことがあったんですけど、ここからMCバトルという物に目覚めて、ライブとバトルを並行してやるようになります。高校1年生の時です。

――その頃の学校生活についても教えてください。

 学校でラップはそんなにやってなかったですね。でも友達にラップをやっているという認知はされていたと思います。その頃ラップ自体が「なにそれ?」という感じの物でした(笑)。でも僕のクラスの人の方がラップというもののポピュラーさに気づいていたと思います。「全然ヤンキーだけじゃないんだ。こういう奴でもラップするんだ」という風に。学校ではいじられキャラでした。いじめっ子でもないし、いじめられるという事もありませんでしたね。ヤンキーの奴にいじられていましたから。でもその人も僕のバトルとかを見てくれていたのでリスペクトはあったと思います。そういう意味で結構空気が良い高校でした。友達想いの奴ばかりでしたよ。

 高校時代のハイライトは、卒業する時にアルバムを自主制作した事ですね。『マージナルマン』というタイトルで。大人と子どもの狭間の時期を指す言葉なんですけど。高校の頃はひたすらフリースタイル、ライブ、バトルの繰り返しでした。恋愛とかもしなかったですね。三島由紀夫の言葉で「初恋に勝って人生に失敗するというのは良くある例で、初恋は破れるほうがいいと言う説もある」というものがあるんですけど、僕の場合は初恋に失敗して良かったなと思っています。煩悩に傾く青春時代のエネルギーを全部ラップにつぎ込めたので。

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