港区であれば東京の頂点であるという発想は、正しいようで正しくはない。

人口約25万人が生息するこの狭い街の中にも、愕然たる格差が存在する。

港区外の東京都民から見ると一見理解できない世界が、そこでは繰り広げられる。

これはそんな“港区内格差”を、凛子という32歳・港区歴10年の女性の視点から光を当て、その暗部をも浮き立たせる物語である。

港区内で頂点を極めた者に与えられるキングとクイーンの称号。クイーンとなり、港区女子を卒業した凛子は、“ギャラ飲みする女性”と出会い、白金で生まれ育ったお嬢様の格の違いを思い知った。




木より高いところには住まない男


今にも梅雨が始まりそうな、ねっとりとした空気に包まれながら、凛子は市原と、広尾ガーデンヒルズにある『セガフレード・ザネッティ・エスプレッソ』のテラス席にいた。

都会の中心にいながら、緑豊かで静かなこのエリア。

少し坂を下ればもう港区なのに、この渋谷区広尾の独特な空気の流れ、そして人の雰囲気が、凛子はたまらなく好きだった。

ショットを追加したエスプレッソを飲みながら、目の前の道をぼんやり眺める。

優雅に犬を連れて散歩している老夫婦と、バギーを押している同じ年くらいの若いママが通っている。

「本当、このあたりは素敵ですよね...」

独り言のように呟いたつもりだったが、市原の耳にはしっかり入っていたらしい。

「凛子さんのおっしゃる通りです。この辺りは無機質なタワーマンションなどもなく低層マンションが多いから、ゆったりとした雰囲気が感じられるんでしょうね。」

夏のような日差しを浴びて、きらきら光りながら揺れる葉っぱを眺めて、市原が言った。そして、付け加えるように言葉を続けた。

「凛子さん、ご存知ですか。港区で一度栄華を極めた人は、タワーマンションには住みません。ちなみに僕も、木より高いところには住みたくないと思っています。」


タワマンの上層階を目指していた男たち。彼らが今求めているのは…?


タワマンラバーで溢れる港区なのに


「でも港区には、良いタワーマンションが沢山ありますよ。」

六本木ヒルズレジデンスに、東京ミッドタウン・レジデンシィズ。この二つが無ければ、港区とは言えない。

ほかにも、泉ガーデンレジデンスに元麻布ヒルズ、東京ツインパークス、近年で言えば虎ノ門ヒルズレジデンスにアークヒルズ仙谷山レジデンス。それに赤坂タワーレジデンス Top of the Hill...

挙げればキリがないほど、港区には良いタワーマンションが沢山ある。

そして、それらのタワーマンションから見える景色は、言葉にできないものがある。

東京タワーや他の高層マンションなど、夜になると一つ一つが優雅に輝きを放ち、眩いばかりだ。

「タワーマンションがダメと言っている訳ではないんです。ただ、一度タワーマンションに住むと、次は何故か低層マンションに住みたくなるんですよね...」




低層マンションに住みたがる、港区引退組


凛子がまだ20代前半の時、周囲にいた男たちは競ってタワーマンションの上層階に住んでいた。

そこでは連日ホームパーティーが開かれ、何度高層階から見おろす夜景にうっとりしたことだろうか。

「ここからの景色を見てると、東京を肌で感じられるから。」

昔、誰かが言っていた言葉を思い出す。

当然の如く、タワーマンションは上層階になればなるほど価格も上がる。男たちは権力の象徴のように自分の部屋を誇示していた。

しかし時代は変わりここ数年、タワーマンションから低層マンションへ引っ越す人は確かに多い気がする。

現に凛子の周囲の知人たちも、続々と低層マンションに住まいを移している。かくいう凛子自身も、有栖川公園に面した低層マンション住まいだ。

「でも、低層マンションに住んだ彼らもまた、違う場所へ移りたくなる時が来るでしょう。港区で生きている人たちは、常に無いものねだりですからね。」

ブラックコーヒーをすすりながら、市原は目を細め、遠くを見つめて言った。


タワマン→低層→何処かへと、常に欲望まみれの港区民


永遠に手に入らない“満足”という感情


「でも市原さん。タワマンでも、素敵なところは素敵ですよ。」

先週遊びに行った友人の家は、赤坂にあるタワーマンションの高層階だったが、やはり眺望が素晴らしく、その家のテラスに住みたいと思ったくらいだ。

「いいなぁ、この眺めとこの広いテラス。」

思わずそう漏らしてしまった。でも家主である彼女の口からは、意外な言葉が発せられた。

「最初は感動していたんだけれど...見慣れたらこの景色が当たり前になっちゃって、朝一番にこの景色を見ても、もう何も感じないわよ。」

家というのも、靴や鞄と同じような感覚になるのだろうか。

クローゼットを開ければ山のように洋服があり、シューズボックスも靴で溢れているのに、最新作が出ると欲しいと思わずにはいられない。

鞄だって、頑張って買った高価な物も、暫く使っているうちに慣れてしまい、また新しい物が欲しくなる。

港区には、新しいものが次々に押し寄せる。だから、いつまでも満たされない。

その欲望は留まるところを知らなくて、時として大きな負のパワーを持つことすらある。

赤坂のタワーマンションに住む彼女は言った。

「タワーマンションに住んだら、低層マンションの静けさが羨ましくなるの。だからもう暫くしたら、引っ越したくて。」

でも、凛子は知っている。

低層マンションに住んだら、この眺めと風格が懐かしくなることを。そしてまたタワーマンションに戻りたくなるか、全く別の土地に住みたくなる日が来ることを。

港区民は永遠に抜け出せない、ないものねだりのループに皆、陥っている。




「市原さんは、今の低層マンションにずっと住み続けるおつもりですか?」

市原は麻布永坂町にある高級低層マンションに一人で住んでいる。

「そうですね...暫くしたら、また別の静かな場所を探して動こうかと考えています。」

カフェから見える場所に駐車している、日本で数台しか走っていないという珍しいモスグリーンのポルシェを見つめる。市原の車だ。

以前は別の、やはり限定カラーのポルシェ、その前はブガッティに乗っていたと言っていた。

「車も家も、常に新しいものへ変えられるんですね。」

港区では、常に走っていないと、取り残されてしまう。

ずっと泳いでいないと死んでしまう魚のように、港区にいる限り、泳ぎ続ける必要があるのだ。

だからこそ、皆タワーマンションから低層マンションに移り、そして更なる刺激と新世界を求めて、自ら違う世界に身を置こうとするのかもしれない。

「港区で生きるのも、大変ですね。」

空を見上げると、どんよりとした雲が太陽を覆い隠していた。

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